小説「新・人間革命」  4月23日 人間外交44

シアヌーク殿下は、山本伸一の質問に答えて、こう語った。

 「私は、すぐにはプノンペンに帰れません。母親が重病なのです……」

 殿下の母親は、波乱の人生を気丈に生きてきたことで知られる、コサマク皇太后である。

 その母堂が、北京で病床に伏していたのだ。七十歳を超えていた。

 殿下は言葉をついだ。

 「おそらく母は、数週間以内に亡くなるでしょう。私は母親をアンコール・ワットに埋葬したいと思っております。

 ですから、私がまず帰るのはプノンペンではなく、アンコール・ワットになるでしょう」

 殿下は壁を指差した。そこにはアンコール・ワットの大きな絵が飾られていた。

 それを懐かしそうに見入る殿下の眼差しから、母親と故国への限りない愛が感じられた。

 母を大切にする心にこそ、ヒューマニズムの原点がある。

 ――親をも愛さぬような者が、「どうして他人を愛せようか」とは、戸田城聖第二代会長の厳しき戒めである。

 伸一は、シアヌーク殿下の言葉に、誠実な人間性の輝きを見た思いがしてならなかった。

 それから殿下は、帰国後、どうするかについて語っていった。

 「今後は日本の天皇制のように、政務は首相に任せたい。私は国際的な活動をしたいと思っています」

 伸一は、外交手腕に富んだシアヌーク殿下が、国際的な活動をすることに心から賛同した。

 中立・非同盟路線を掲げた「シアヌーク外交」は、戦火が打ち続くインドシナにあって、“綱渡り”のように、危険な局面を切り抜けてきた。

 東西冷戦の狭間で、カンボジアが平和を維持できたのは、その外交手腕の賜物であった。

 殿下はまさに、平和の柱となってきたのである。

 事実、クーデターによって、殿下が追放されるや、ロン・ノル政権を支える、アメリカ軍、南ベトナム軍が越境し、カンボジアは戦場となったのである。

 しかし、柱のありがたさに気づく人は少ない。いつの間にか、それが当たり前のように思ってしまうからだ。

 だが、その柱を守り、大切にしなければ、建物は崩れてしまうのだ。