小説「新・人間革命」 人間外交49 4月29日
高根八重は夫のパン・ソーレと、必ず生きて再び会おうと誓い合った。
日本人でもカンボジアから出国できない人もいた。査証(ビザ)、パスポートは手に入れても、航空券を購入できなかったのだ。
高根は見送ってくれた日本人の女性たちに、「絶対にあきらめないで頑張って! 一日も早く、生きて日本に帰って来てね」と言って別れた。
プノンペンの空港で、乗ることができた飛行機は、古い双発機であった。離陸はしたものの、高空まで上昇することができず、低空飛行を続けた。高射砲弾が飛ぶなかでの飛行である。
彼女は子どもを抱き締めながら、必死になって題目を唱えた。生きた心地がしなかった。
彼女たちが、タイを経て、日本に着いたのは、一九七五年(昭和五十年)の四月十一日のことであった。
既に両親を亡くしていた高根は、女手一つで、四人の子どもたちを育てなければならなかった。
日本でも苦悩の歳月が待っていたのだ。
子どもたちは日本語が全く話せない。学校でいじめにもあった。
彼女は同志に励まされ、懸命に信心に取り組み、必死に生きた。
信仰とは勇気の源泉であり、生きる力である。
高根は、夫との再会を信じて生き抜いた。
カンボジアでは、ポル・ポト政権のヘン・サムリンがポル・ポトに反旗を翻し、ベトナムの支援を受けて、カンプチア救国民族統一戦線を結成。ベトナム軍と共にカンボジアに進攻し、七九年(同五十四年)一月、ポル・ポト派を追いやり、プノンペンを解放した。
だが、夫については、何もわからなかった。
高根は、ポル・ポト派による強制労働や大量虐殺などが明らかにされるたびに、夫やカンボジアに残ったメンバーを思い、胸を痛めた。
そして、自分と子どもだけがカンボジアから脱出できたことに、申し訳なさを覚えた。
この年の十二月、メンバーである日本人女性が、二人の子どもと共に日本に生還した。
山本伸一は、その女性と高根を神奈川文化会館に招き、全力で激励した。
「本当によかった。あなたたちには、平和のために生き抜く使命があるんですよ」
日本人でもカンボジアから出国できない人もいた。査証(ビザ)、パスポートは手に入れても、航空券を購入できなかったのだ。
高根は見送ってくれた日本人の女性たちに、「絶対にあきらめないで頑張って! 一日も早く、生きて日本に帰って来てね」と言って別れた。
プノンペンの空港で、乗ることができた飛行機は、古い双発機であった。離陸はしたものの、高空まで上昇することができず、低空飛行を続けた。高射砲弾が飛ぶなかでの飛行である。
彼女は子どもを抱き締めながら、必死になって題目を唱えた。生きた心地がしなかった。
彼女たちが、タイを経て、日本に着いたのは、一九七五年(昭和五十年)の四月十一日のことであった。
既に両親を亡くしていた高根は、女手一つで、四人の子どもたちを育てなければならなかった。
日本でも苦悩の歳月が待っていたのだ。
子どもたちは日本語が全く話せない。学校でいじめにもあった。
彼女は同志に励まされ、懸命に信心に取り組み、必死に生きた。
信仰とは勇気の源泉であり、生きる力である。
高根は、夫との再会を信じて生き抜いた。
カンボジアでは、ポル・ポト政権のヘン・サムリンがポル・ポトに反旗を翻し、ベトナムの支援を受けて、カンプチア救国民族統一戦線を結成。ベトナム軍と共にカンボジアに進攻し、七九年(同五十四年)一月、ポル・ポト派を追いやり、プノンペンを解放した。
だが、夫については、何もわからなかった。
高根は、ポル・ポト派による強制労働や大量虐殺などが明らかにされるたびに、夫やカンボジアに残ったメンバーを思い、胸を痛めた。
そして、自分と子どもだけがカンボジアから脱出できたことに、申し訳なさを覚えた。
この年の十二月、メンバーである日本人女性が、二人の子どもと共に日本に生還した。
山本伸一は、その女性と高根を神奈川文化会館に招き、全力で激励した。
「本当によかった。あなたたちには、平和のために生き抜く使命があるんですよ」