小説「新・人間革命」 人間外交63  5月16日

復旦大学を訪問した日の夜、上海市の関係者によって、山本伸一たち一行の歓迎宴がもたれた。

 上海市は、横浜市大阪市の友好都市となっており、開明的な気風にあふれた街である。

 伸一にとって上海は二度目の訪問であり、皆、懐かしい顔であった。

 この歓迎宴のあいさつで伸一は、初訪中以来、世々代々の日中の友好を願って、訪中の模様を映画にしたり、中国の印象記を執筆するなど、自分なりに、懸命に努力してきたことを伝えた。

 そして、中国から創価大学に留学した学生たちについて語った。

 「このたび、私が創立いたしました創価大学に、中国から六人の留学生を迎えました。

 中国からの留学生といえば、私は、偉大な文学者であり、人間の解放をめざして古い道徳・思想と鋭く戦い抜いた魯迅先生と、仙台の藤野先生の交流を思い起こします」

 伸一は、前年の第一次訪中の折、上海で魯迅の故居を訪れていた。そこで目にした、魯迅の遺品などを懐かしく思い返しながら話を続けた。

 「魯迅先生は、『藤野先生』という一文を残されております。お二人の間には、民族、国家の壁を超えた人間と人間の温かい心の触れ合いがありました。気高く美しい人間性の調べがあふれております」

 ――魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。ここで、解剖学を教える、福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。

 藤野は、留学生の魯迅に、講義を筆記したノートを提出するように言う。戻されたノートを見ると、朱筆でびっしりと添削されていた。

 魯迅が書き切れなかったところは補足され、日本語の文法の間違いも指摘してあった。

 その添削は、藤野が授業を担当している間、ずっと続けられた。

 魯迅は「藤野先生」に記している。

 「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」(注)と。

 藤野は“なんとしても、彼には大成してほしい”との思いで、心血を注いで励まし続けたのであろう。それが師の心だ。

 伸一には、その“藤野先生”の気持ちが痛いほどよくわかった。



引用文献:  注 『魯迅文集2』竹内好訳、筑摩書房