小説「新・人間革命」 宝冠31  8月20日

山本伸一たちは、ゴーリキー記念図書館から、車でモスクワ大学の本館に向かった。

 超高層の大学本館の近くに、新しい白い塔が天に向かってそびえていた。第二次大戦で亡くなったモスクワ大学の学生や教職員を弔う記念塔である。

 ナチス・ドイツの侵略に抗して、学生も、教職員も、ペンを銃に持ち替え、祖国を守るために戦い、そして、命を落としていった。

 この塔は、ソ連の対独戦勝三十周年を記念して、完成したばかりだという。

 一行は献花のために記念塔の前に立った。

 伸一たちが近づいたことも気づかず、一人の老婦人が一心に祈りを捧げていた。スカーフと黒いコートが、ヒューヒューと吹きつける冷たい風に翻っていた。戦争に命を散らした学生の母なのであろうか。

 彼女は、花を手向け、身じろぎもせずに、じっと、祈りを捧げていた。その姿は、伸一の胸のなかで、長兄の戦死の知らせを見て、肩を震わせて泣いていた母の姿と重なった。

 老婦人の背中は、天に向かい、大地に向かい、ありったけの声で平和を訴えているように、伸一には思えた。

 去って行く老婦人を見送ったあと、献花した伸一は、心から題目を三唱し、犠牲者の冥福を祈りつつ、誓うのであった。

 “戦争など、断じて起こしてはならない。若い命が犠牲になるような事態を、絶対につくりだしてはならない。

 そのために、私は自らの生命をなげうって戦おう。世界を駆け巡り、人間の心と心を結ぶために、語りに語ろう!”

 伸一は、トインビー博士との対談の折、博士が語っていた言葉が忘れられなかった。

 「権力を握った人間は、その掌中にある人々の利益を犠牲にしても、なおその権力を己の利益のために乱用したいという、強い誘惑にとらわれるものです」(注)

 その権力者の魔性の心を変革するための戦いこそ、博士から託された自分の使命なのだ――彼は、そう自らに言い聞かせていた。



引用文献:  注 「二十一世紀への対話」(A・J・トインビー共著『池田大作全集3』所収)聖教新聞社