小説「新・人間革命」  1月12日 新世紀43

松下幸之助との会談を終えると、山本伸一は総本山を案内し、丁重に見送った。

 それから半年余りが過ぎた十一月、伸一は京都にある松下の別邸「真々庵」に招かれた。

 松下は茶室で自ら茶をたて、伸一をもてなした。心に染み渡る一服であった。

 あとで聞いた話では、松下は夫人と共に、前日から陣頭指揮で、伸一を迎える準備に当たっていたとのことであった。

 そして、伸一の到着前に、もう一度、案内する順路を確認し、「いつ、最後の打ち水をするか」を二人で語り合っていたという。

 ――水が靴を湿らせてはいけない。かといって、からからに乾いた石の道を歩ませてはいけない。一番、しっとりとした、ほどよい状態にするには、到着の何分前に打ち水をすればよいのか、と。

 伸一は、松下夫妻の真心に深謝した。

 そして、松下が創立し、育て上げた松下電器は、発展すべくして発展したのだと、しみじみと思った。誠心誠意、相手のことを考え、尽くそうという努力と行動は、必ず開発の成功と信頼を生むからだ。

 松下は『夢を育てる――私の履歴書』(日本経済新聞社)に、こんな話を記している。

 高度経済成長のひずみから不況が始まった一九六四年(昭和三十九年)初夏、彼は熱海のホテルに松下電器の販売会社・代理店の社長に集まってもらい、懇談会を開いた。

 このころ彼は、既に社長を退き、会長となっていた。販売会社・代理店には、松下電器としてはできる限りの応援をしてきた。しかし、それでも八割強の販売会社・代理店が赤字であり、不満が続出した。

 松下は、強い語調で言った。

 「苦労したと言われるけれども、血の小便が出るまで苦労されたでしょうか!」

 そのぐらい必死に努力するなら、道が開けぬわけがないという、信念の叫びであった。

 事実、不況下でも、二割弱の販売会社・代理店は黒字であるのだ。