小説「新・人間革命」 1月23日 新世紀53

切り開いた道は、通い合うほどに、広く、堅固になっていく――。

 松下幸之助山本伸一は、『人生問答』の出版について語り合った後も、交流を重ね、絆は、ますます強く、固くなっていった。

 松下は、一九七五年(昭和五十年)十一月の、広島での本部総会にも出席した。

 東京・八王子の創価大学、大阪・交野の創価女子学園(現在は関西創価中学・高校)にも足を運び、その教育に大きな期待を寄せ、讃辞を惜しまなかった。

 また、伸一が関西から中国訪問に向かう時には、空港まで見送りに来るのである。

 さらに、松下は、しばしば、こう語って伸一を励ました。

 「この乱れた日本を救い、世界の平和と繁栄を築いていく人は、先生しかいません」

 「本当に、日本のため、国民のためを思って、毎日戦っておられる」

 「先生は、日本にとっても、世界にとっても、掛け替えのないお方ですから、くれぐれも十分なご養生のうえ、お体を大切にしていただきたい」

 伸一は、いたく恐縮しながら、人生の先輩からの、身に余る期待と真心の激励として、それらの言葉を受けとめた。

 また、よく松下は、「先生にお目にかかっていると、何かしら元気がわいてくる。お会いできるだけで嬉しい」と語っていた。それは“常に、人に元気を与える人たれ”との指導であったのであろう。

 ある時、予定の時刻より一時間も前に、松下が会見の会場に到着したことがあった。

 「少しでも早くお会いしたかったものですから……」と、屈託のない笑いを浮かべた。

 伸一と松下の会談は、四時間、五時間がかりとなることも珍しくなかった。二人とも、話は尽きないのだ。

 “日本の未来のために、少しでも語っておきたい! 聞いておきたい!”

 松下の物腰は柔らかであったが、彼の言葉には、そんな気迫があふれていた。