【第7回】 共戦の父子の絆 関西創価学園  2010-2-26

「学園生は私の宝! 私の命!」
 最寄りの駅から、一本の道が山裾に沿って、なだらかに続く。緑がまぶしい。野鳥はさえずり、花々が躍り咲く。万葉の詩情が薫る大阪・交野。自然の名画が広がっていた。
 関西創価学園へと続くこの道を多くの生徒が通い、逸材が巣立っていった。
 皆が「交野の道」と親しんだ一本道。学園まで約20分。その道は、鍛えの道であり、友との語らいが弾む友情の道であった。
創立者・池田名誉会長も、この道を何度も往復し、学園生に励ましを送り続けた師弟の道、父子の道であった。
 昭和53年(1978年)4月のある日、下校中の女子生徒が、澄んだ瞳をパチクリさせた。学園のジャージーを着た創立者が、自転車に乗って近づいてくる。
 「ここを毎日歩いているの?」「学校の先生はよくしてくれる?」
 すれ違うたびに、生徒に声をかけていく。絶対に無事故で! 感謝を忘れず!
 今は徹して学ぶんだよ!。
 校門では家族の迎えを待つ、3人の学園生かいた。
 「一緒に、待ってあげよう!」。生徒が抱えていたバッグを手に取り、「重たいね」と、毎日の登校を気づかった。激務を縫っての語らいは1時間! 父親が到着するまで、一人一人の状況を尋ね、励ました。
 数日後、校門には生徒用の白のベンチが置かれた。
 来阪しては、時間をこじ開け、学園に足を運ぶ創立者。校内で生徒を見かけると、教員に状況を尋ねた。
 学園生のことを、一人ももれなく知っておきたい!──真剣さに、教員は圧倒された。まさに「私の手作りの学園」であった。
 太田清美さんは、中学1年の夏、校門の手前で、創立者から、童話『赤ずきん』の洋書を贈られた。この日のことが、国際線の客室乗務員になるきっかけとなった。
 卒業して7年後の昭和62年2月、日航機のなかで、海外指導へ向かう創立者と再会。「学園生で初めての道を開いたね。ありがとう」
 その場で和歌を贈った。
 「嬉しくも/また楽しくも/広布旅/園子《そのこ》の雄姿/機中に見つめて」
 太平洋の上で、あの頃と同じ温もりに包まれた。
 ある学園生は、創立者を塵一つない学園に迎えようと、校舎の隅で清掃に黙々と励んだ。創立者から伝言が届く。「きれいな中で迎えてくれてありがとう」──陰の一人を忘れない。
学園生は、師の心を胸に国際貢献の舞台へ雄飛した。
 昭和60年10月、第4回の健康祭。創立者賞マラソンで、ふらふらになりながら最後にゴールヘたどり着いた大削《おおげ》武雄さんに、創立者は自身が着けていた白バラの胸章を外し、彼の胸へ。
 卒業後、大削さんは、弁護士を志す。断念しかけたこともあったが、「遅れても、最後まであきらめずに走った『負けじ魂』を讃えたい」との創立者の言葉に触れ、信念を貫いた。
最終走者は今、法曹界で正義の力走を続ける。
 創立者の学園生への思いは微塵も変わらない。
 「関西創価の同窓のスクラムこそ、私の命であり、また私と妻の宝である。さらにまた、わが家全員の夢であり、そして、我ら関西家族みなの希望でもある」
 卒業生は、1万人を超えた。男子は「金星会」、女子は「蛍会」として世界中で学園魂を燃やしている。
 「私には学園生かいる!」──関西には、誰も裂くことのできない、共戦の父子の絆が輝き続けている。