【第8回】 広宣流布の最初の地帯 沖縄  2010-3-6

永遠平和の象徴の天地たれ
 
 突然、大粒の雨がフィールドをたたき始めた。雨脚は次第に強くなる。
 昭和58年(1983年)3月21日、3万人の沖縄平和文化祭。
 演技する友の顔が激しい雨で霞む。衣装はぬれ、袖口から水滴が落ちる。地面には無数の水たまり。動くたびに泥がはねる。それでも熱演は止まらない。むしろ、勢いづいている。
 場外で出番を待つ1000人の婦人部員。身に纏う伝統の紅型《びんがた》衣装は、一針一針に平和の心を込めて縫い上げた"宝の衣"。それにも、雨は容赦なく染みこんだ。
 この時、一人が叫んだ。
 「みんなキレイよー」。皆の心に太陽が昇った。「もう腹が据わったよ」。雨を笑い飛ばす声が広がった。
 約20分間の豪雨──それは、いかなる困難をもはね返す、沖縄の友の心意気を満天下に宣言するための、自然の"大演出"だった。
 国連広報センターのエクスレイ所長は言った。「皆さんの文化祭を、雨も止めることはできなかった」
 池田名誉会長は讃えた。
 
  天も地も   沖縄健児を    ためさむと   あゝ歴史に残さむ    雨の祭典
       
 文化祭の前日、関西から空路、沖縄入りした名誉会長は、恩納《おんな》村の沖縄研修道場を初訪問した。
 記念の植樹を終えると、黒ずんだコンクリートの巨大な塊《かたまり》の前へ。
 長さ約100㍍。八つの発射口を持つ、ミサイルの発射台が廃虚となって残っていた。
 研修道場の敷地内には、かつて、核弾頭が装備できる、中距離弾道ミサイル「メースB」を配備した、米軍のミサイル基地があった。ミサイル本体は、すでに撤去されていたが、厚さI・5㍍ものコンクリートで造られた発射台は、その無機質な姿を残していた。
 「核ミサイルの発射基地です。照準は中国でした」
 「基地は沖縄に4カ所ありましたが、残っているのは、ここだけです」
 資料を手に、友の説明を聞く名誉会長。ミサイルの格納庫の内部も、丹念に視察した。
 すべて取り壊し、研修施設に変わる計画だった。
 「永遠に残そう!」──名誉会長は提案した。
 「『人類は、かつて戦争という愚かなことをした』との一つの証しとして」
 「『戦争を二度と起こさない』との誓いを込めて」
 戦争の悲劇を忘れない、忘れさせない戦いのなかにしか、平和は築けない。
 名誉会長は続けた。
 「発射台の上には、平和の象徴になるようなブロンズ像を立てよう!」
 「この場所を『世界平和の碑』にしよう!」
 友の顔が、はじけるように輝いた。
 発射台は、翌・昭和59年(84年)に「世界平和の碑」として生まれ変わった。
 世界の友が喜々として集うこの場所は、「軍事施設の跡地利用のモデル中のモデル」と評価は高い。
 人々を分断する戦争の要塞は、人々を結ぶ平和の要塞となったのだ。
 そうだ! 私たちも変わることができる?
 この転換の象徴こそ「世界平和の碑」であった。
 文化祭から2日後の23日は、沖縄広布第2幕を告げる第1回記念総会。
 名誉会長は師子吼した。
 ──信心の連帯の輪を広げ、世界模範の「永遠平和の象徴の天地」たれ、と。
 正義の拡大の先頭を走る沖縄は今、「世界最初の広宣流布の地帯」と輝く。
 本年は、「沖縄の心」を誰よりも知り、誰よりも大切にする、名誉会長の沖縄初訪問50周年である。