小説「新・人間革命」  3月23日 学光47

 通信教育部開設五年目の一九八〇年(昭和五十五年)八月、夏期スクーリング中に行われた第五回学光祭には、山本伸一も、初めて出席した。
十二日の夕刻、会場の中央体育館に向かう伸一の足取りは軽かった。通教生と会えると思うと、彼の胸は躍るのだ。
 通教生は、北は北海道、南は沖縄、さらに遠く、海外はイラクからも参加していた。
 伸一が、学長らと共に、体育館の二階席に姿を現すと、雷鳴のような拍手が轟いた。
 ステージでは、創作体操や棒術、空手演舞、リズムダンスなどが、次々と披露されていった。その演技の一つ一つに、伸一は「うまい。上手だね」と、賞讃を惜しまなかった。
 やがて、通教生の愛唱歌「学は光」の発表となった。有志が、皆の誓いを託して、このスクーリング期間中に作詞作曲した歌だ。
 三番には、こう歌われていた。
      
  重きまぶたを こすりつつ   綴りし文字に 夢馳せて  夜空の星の またたきは   微笑む我が師の 瞳にも似て   いざや王者の 道なれば   学は光と 今もなお……
       
 伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかった。彼自身、青春時代に、大世学院の夜学に通い、苦学してきたからだ。
 また、会長として、同志の激励に全国を東奔西走するなか、寸暇を割いて、リポートの作成に取り組んだこともあったからだ。
 ――戸田城聖の事業を再建するため、やむなく中退した大世学院の後身にあたる富士短期大学(当時)から、卒業のためのリポートを提出してはどうかとの、強い勧めがあったのである。
 伸一は、その厚意に応えようと、十のリポートを書き上げ、六七年(同四十二年)二月に提出したのだ。
 自らが苦闘を経てこそ、人を真に励ますことができる。労苦は、人間を磨き、深める。