小説「新・人間革命」  3月25日 学光49

 一九八二年(昭和五十七年)四月には、教育学部の通信教育課程が開設された。これによって、小学校や幼稚園の教員免許状、社会教育主事任用資格の取得も可能になったのである。
 創大通教は、年ごとに学生も増え、民衆教育の大城として、発展を重ねていった。
 八四年(同五十九年)八月、通信教育部では、学生同士が「建学の精神」を学びつつ、互いに励まし合い、卒業をめざすために、希望者からなる都道府県別組織を整備することになった。
 同じ志をもった友の励ましは、勇気の泉となり、前進の力となる。友情のネットワークは、人間を守り、磨き、強くする。
 それまでも、地域によっては、自主的に連絡を取り合い、学習会などが行われていたが、大学として本格的に、地域別に学生会を組織し、学生相互のネットワークづくりに着手していったのである。
 その学生会の命名を依頼された山本伸一は、「光友会」と名付けた。「学は光」との指針を深く胸に刻み、自らを輝かせながら前進していく友のグループであってほしい――との思いからの命名であった。
 「光友会」は、一年後の学光祭を目標に、都道府県単位で結成を行っていくことになった。
 翌八五年(同六十年)、夏期スクーリング期間中の八月十三日夕刻には、第十回学光祭が、第一回光友会総会の意義を込め、創価大学の第一グラウンドで行われた。
 伸一は、通教生の代表らに、「第十回の学光祭は、卒業生も呼んで、盛大に行おうよ。私も必ず出席します」と語ってきた。
 これには、全国から六千人が、喜々として集って来たのである。だが、誰よりも逸る心で、この日を迎えたのは、伸一であった。
 通教十年の歴史を共に開き、堅固な礎を築いてくれた最愛の盟友たちを、心から讃え、励ましたかったのである。
 学生への尊敬と感謝の心をもつことこそ、伸一の第一の教育哲学であった。