【第33回】 歴史回天の電源地 鹿児島 2010-9-24

革命児よ、出でよ!
 
 かつて明治維新を成したのは、青年であった。
 大阪の適塾。長州の松下村塾。そして薩摩では、「郷中」という青年錬磨の伝統の中から、西郷、大久保ら、綺羅星の如く革命児が躍り出ていった。
 池田名誉会長はかつて鹿児島の青年に語っている。
 「明治維新よりも何倍、何十倍もの偉人が、一流の人が、大指導者が、この地から出ていただきたい!」
 来訪は23回。その軌跡をたどると、明確な一つの焦点が浮かび上がる。
 人材育成、これである。
 青年とともに語り動き、広布の指導者を養成する方程式を刻み残してきた。
 
 「皆さーん! お元気でごわすか」
 親しみを込めた名誉会長の鹿児島弁に、わあっと笑顔が広がる。
 昭和47年(1972年)9月7日、鹿児島県体育館で開かれた記念撮影会。
 撮影が終わると、たちまち名誉会長を囲む青年の輪ができた。「さあ、一緒に歌を歌おう」と名誉会長。
 「オー!」と逞しい声。
 「田原坂」そして「同志の歌」の大合唱が轟いた。
 名誉会長は自らマイクをとり、汗まみれの青年の顔をタオルで拭った。
 激励は、体育館だけでは終わらなかった。
 霧島の研修道場(現・21世紀自然研修道場)で、名誉会長は、男子部の整理役員と風呂をともにした。奮闘を労い、思い出を作ってあげたい、との心遣いである。
 喜んで湯舟に向かう若者たち。
 名誉会長が提案した。「どうだ、もう一度『同志の歌』を歌おうよ」
 「はい!」
 ある青年が「では、私が指揮を!」。
 「お湯の中で、指揮はいいよ」と名誉会長。
 笑いと歌声が弾けた。
 キャンプファイヤーを囲み、師匠と弟子の語らいの夜は更けていく。
 名誉会長が言った。
 「ここに集ったグループに名前をつけよう。『柿の実党』はどうだ」
 「柿は実をつけるまでに8年と言われる。諸君も8年間、あらゆる困難にぶつかっても、悠々と生き抜き、断じて勝つのです!」
 沈黙が流れた。感動のあまり声もなかった。青年たちの頬を伝う涙を、炎が赤々と照らしていた。
 
 開所以来、名誉会長は、道場を17回訪れている。
 昭和58年(83年)7月には7日間滞在し、未来部員と思い出を刻んだ。ブラジル青年部も励ました。初訪ソの3カ月後、昭和49年(74年)12月にはモスクワ大学の学生も招いている。
 17度目の訪問は平成2年(90年)の9月29日であった。この日、鹿児島に台風20号が接近。台風銀座の鹿児島の人々も身構えたほどの暴風雨である。
 翌日には、全国男子青年部幹部会が予定されていた。青年たちはこの嵐では、中止になってしまうと気が気ではなかった。必死に祈った。婦人部はじめ全同志も同じであった。
 そこに午後2時半、名誉会長の車が悠然と姿を現す。「鹿児島の同志が、青年が待っているではないか」と、速度制限のなか、熊本から九州道を走ってやって来た。
 「私が来たから大丈夫だ」。伝言が伝えられると、「やった!」と青年たちの歓呼が上がる。夕刻には嵐がやみ、茜色の空には、虹さえ架かっていた。
 翌日は快晴。全県から、奄美などの離島からも、メンバーが喜び集ってきた。
 山下剛県男子部長(現・総県長)は会合直前、名誉会長から助言を受けた。あいさつの原稿のタイトル「鹿児島から広宣の歴史を」の冒頭に「我が」の二文字を加えるように、との内容だった。
 はっとした。
 「我が鹿児島」――そうだ! 誰かでなく、「我こそ」広布を開くという決死の一念が大事なんだ。師匠とは、ここまで心を砕いてくださるのか
 学会創立80周年に、全国模範の友好拡大の証しを打ち立てた鹿児島は、思い出深きこの9月、新体制で出発を切った。
 
 「歴史回天の電源地」
 名誉会長は、祝福のメッセージでそう呼びかけた。
 名誉会長手作りの人材の陣列が今、鹿児島には各世代に揃っている。
 創価の新しき勝利の時代を開くのは、鹿児島の熱と力である!