【第35回】 21世紀の「栄えの国」 佐賀 2010-10-9

 真心こもる 友らを忘れじ
 
 「来たよ!」
 「13年ぶりだったね」
 懐かしい、そして力強い池田名誉会長の声だった。
 福岡を車で出発する時には強かった雨脚が、鳥栖、神埼を過ぎるころには小雨となり、到着した午後3時過ぎには、日も差して、有田焼のタイルでできた佐賀文化会館の外壁を美しく照らしていた。
 平成2年(1990年)9月24日。佐賀の友が待ちに待った訪問が実現した。
 先生が佐賀へ!――その報は既に県内をかけ巡り、多くの同志が懸命に訪問の大成功を祈っていた。居ても立ってもいられず、辻々で出迎えた友も。会館の周囲にも、一目だけでもと大勢の友が詰めかけた。
 車を降りた名誉会長は手を振って応えると、こう語った。
 「佐賀の人は信用できる。裏切らない。真面目で固い。日本で一番信用できるのが、佐賀だよ」
 昭和52年(77年)の訪問でも、名誉会長は同じことを言い残している。
 派手さはないが、誰が見ていなくとも、一度決めたことを黙々と貫き通す――そんな佐賀人の美質を知り抜いていたのである。
 着いた文化会館の庭には、有志が真心を込めた、吉野ケ里遺跡のミニチュアがあった。ちょうど「国内最大規模の弥生遺跡発見」のブームに沸いている時だった。
 「よくできているね。ありがとう」。遺跡を見ながら名誉会長は続けた。
 「佐賀は栄えの国なんだ」「これからどんどん良くなるよ。日本一、世界一の都になるよ!」
 人口も面積も九州で最も小さい佐賀は、ややもすると地味な存在と見られがちである。人のいい佐賀の人々も、そうした見方を受け入れてしまうところが、なかったとはいえない。
 名誉会長は、そんな佐賀の人々に、堂々と胸を張って21世紀へ進んでほしかった。自身が幸福になるだけでなく、わが国土も、繁栄の方向へ無限に開いていける信心なのだと、教えたかったのではないだろうか。
 「古来、佐賀の地は文化の先進国であった」と、後に名誉会長は綴っている。
 弥生時代、佐賀一帯は、大陸や韓・朝鮮半島の文化をいち早く受け入れ、栄えた。半島出身の陶工たちが築いた有田の焼き物の技術は、世界を魅了してきた。
 幕末には「薩長土肥」の一角として、維新の旋風を起こした。佐賀には、大いなる栄えの歴史と可能性が開けているのである。
 
 名誉会長の佐賀初訪問は昭和42年(67年)9月15日。大和町で開かれた、2100人との記念撮影会であった。2時間をかけて、一人一人、声をかけ、希望を贈った。
 2度目の訪問は昭和52年(77年)5月25日からの3日間。勤行会、功労者追善法要に出席した。懇談し、「佐賀は青年が伸びている。21世紀の佐賀が楽しみだ」と期待を込めた。
 佐賀の友が卑劣な宗門と戦っていた昭和55年(80年)の4月30日にも、長崎から福岡へ向かう列車が止まるたびに、窓に駆け寄り、ホームで待つ友を励ました。肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖――と。
 その一つ一つの思い出が、佐賀の同志に、今も勇気を吹き込み続ける。
 平成2年、佐賀文化会館に向かっていた車中で、名誉会長は詠んだ。
 
 あの道に また この道に 手を振りし 真心こもる 友らを忘れじ
 
 佐賀の友もまた、師匠のあの眼差し、あの温かい声を忘れることはない。