小説「新・人間革命」 母の詩 22 10月27日

山本伸一は、横たわる、母・幸の手を、握り締めた。母も、彼の手を握り返そうとしているようであったが、指先が動くだけで、力は感じられなかった。
 彼は、持参してきた花束や、母を知る同志からの見舞いの品々を見せ、枕元に置いた。
 「ありがとう……」と言うように口を動かし、ニッコリと微笑んで、静かに頷いた。
 それからほどなく、目を閉じ、静かな寝息をたて始めた。
 伸一は、母への報恩感謝の思いを込めて、仏壇に向かい、一心に唱題した。
 しばらくして、再び、母の顔を覗き込んだ。その時、うっすらと目を開けた。それから、深い眠りについたようだ。
 伸一は、幾筋もの皺が刻まれた、母の顔を見ながら、八十年の来し方を思った。
 ――母の幸は、一八九五年(明治二十八年)、東京府荏原郡の古市場(現在の大田区内)の農家に、長女として生まれた。
幸の娘時代を知る縁者の話では、裁縫が上手で、負けず嫌いだが、優しい心の持ち主であったという。
 幸が、父・宗一と結婚したのは、一九一五年(大正四年)であった。強情さまと呼ばれた頑固一徹な父のもとで、家業の海苔の養殖を懸命に支えた。
 しかし、その家業も、関東大震災のころを境に傾き始め、さらに、宗一がリウマチで寝込むようになっていった。
 宗一と幸の間には、男七人、女一人の子どもがいた。伸一は、その五男として育った。しかも、父母は、さらに、親類の子を二人、引き取って育てたのである。
 伸一は、母の働く姿しか思い出すことはできない。家事だけでも大変なうえに、海苔製造という家業を担うのだ。寝ている母の姿を見た記憶は、ほとんどなかった。
 ナイチンゲールは、「忍耐強く、朗らかに、そして親切に」(注)と訴えている。実は、そこに、苦難のなかでも、幸せの果実を育む道があるのだ。
 それは、母・幸の生き方そのものであった。
 
■引用文献:  注 「看護婦と見習生への書簡」(『ナイチンゲール著作集 第三巻』所収)湯槇ます・小玉香津子・薄井坦子・鳥海美恵子・小南吉彦訳、現代社