小説「新・人間革命」 母の詩37  2010年 11月13日

山本伸一は、八月六日、鹿児島の九州総合研修所(現在の二十一世紀自然研修道場)での諸行事に出席するため、東京を発った。
出発の前に、彼は、母・幸のもとに、「母」の歌のテープを届けてもらった。
 母の容体は、幸いにも小康状態が続いていた。そして、伸一が贈った「母」の歌のテープを、何度も聴いては、微笑みを浮かべて、嬉しそうに頷いていたという。
 ――この「母」の歌は、国境を超え、多くの人に愛されていくことになる。
 一九九二年(平成四年)二月、インドを訪問した山本伸一と妻の峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。
ラジブ・ガンジー元首相の妻・ソニア夫人である。
 伸一は、八五年(昭和六十年)の十一月に首相が来日した折、核軍縮の問題や、中国との友好、青年への期待など、多岐にわたって語り合った。
 そのラジブ・ガンジー首相が、伸一の訪印する九カ月前の九一年(平成三年)五月、選挙遊説中に爆弾テロで命を奪われたのである。
ラジブの母で首相であったインディラ・ガンジーも、八四年(昭和五十九年)十月、銃弾に倒れている。ソニア夫人は、猛り狂う悲劇の嵐のなかで、決然と立とうとしていたのである。
 伸一は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを贈りながら語った。
 「母は太陽です。太陽は輝いてこそ太陽です。お義母様が亡くなられた直後、ご主人は『二十一世紀のインドを、ともどもにつくりあげていこう』と、全インドに呼びかけ、立ち上がられました。
 これからは、ご一家が、二十一世紀のその先までも、光を届けてください。
 『人間革命の歌』は、どんな吹雪にも胸を張って生き抜いていこうという心を歌ったものです。
人生には、暴風雨があり、暗い夜もあります。それを越えれば、苦しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るものです」