小説「新・人間革命」 母の詩 39 11月17日

「母」の歌にまつわる逸話は尽きない。
 一九九二年(平成四年)十二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパス(当時)で、語学研修中の創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。
 短大生が尋ねた。
 「模範とされるのは、どなたでしょうか」
 即座に、答えが返ってきた。
 「母です。母は、強い意志をもって自分の尊厳を守ることを、教えてくれたからです」
 懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて、「母」を合唱した。パークスには、英訳した歌詞が渡されていた。
 彼女は、感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んだ。
 九四年(同六年)五月、人権運動の母は、山本伸一と峯子の招きで、初めての来日を果たし、創価大学で講演した。
この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。
 その要請に応え、「母」を歌ったメンバーの代表が集い、喜びの再会を果たしたのである。歌を通して、人権運動の母と娘たちの、固い絆が結ばれたのだ。
 また、二〇〇六年(同十八年)七月、中華全国青年連合会(全青連)の招聘を受けて、青年部の訪中団が上海を訪問した折、歓迎宴で、全青連のメンバーが提案した。
 「『母』の歌を歌いましょう」
 彼らも、この歌が好きなのだという。
 さらに、同年十一月、山本伸一に、名誉人文学博士号を授与するために来日した、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。
 自身も三児の母。彼女の父親は、九人の子どもを残して、若くして亡くなった。しかし、母親は、子どもを全員、大学で学ばせてくれた。学長は、感動をかみしめて語った。
 「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」