小説「新・人間革命」 厳護 41 1月27日

戦後の創価学会再建にあたって、戸田城聖が、全精魂を注いできたのは、教学を一人ひとりの生命に打ち込むことであった。
 戸田は、戦時中、軍部政府の弾圧で逮捕された二十一人の幹部のうち、会長の牧口常三郎と自分以外は、皆、退転するという一大痛恨事を体験した。
 主が投獄された一家は、生活の柱を失い、食べていくこともできない事態に直面した。そのうえ、「非国民の家」と罵られ、悲嘆に暮れた家族が、まず、信心に疑いをもち、退転し始めた。
妻は夫に、「信心をやめて、一日も早く帰ってくるように」と、涙ながらに懇願するのである。そして、幹部たちは、次々と軍部権力に屈していったのだ。
 また、投獄されぬ者も、弾圧を恐れて、大多数が、愚かにも信仰を捨てたのである。
 出獄後、戸田は、悔し涙に暮れた。
 もし、皆が、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」(御書一〇八七ページ)との文を心肝に染めていたならば、仏法の法理への不動の確信に立ったであろう
 一方、牧口は、獄中から家族に宛てた手紙に、「三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」(注)と、歓喜をもって記している。
 牧口の御書には、「開目抄」の「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(同二三二ページ)に赤線が引かれていた。
彼は、大難に遭い、御書を身で読むことができた喜びのなか、殉教していったのである。
 また、戸田は「在在諸仏土 常与師倶生(在在の諸仏の土に 常に師と倶に生ず)」(法華経三一七ページ)の一節を胸に、牧口の不二の弟子として、獄中闘争を貫き通した。
 同志の退転は、信心への確信なく、教学に暗いゆえである。二度と同じ轍を踏むまい
 こう痛感した戸田は、学会の再建に、教学をもって臨もうと、終戦の翌年にあたる一九四六年(昭和二十一年)の元日から、法華経講義を開始した。
さらに、「観心本尊抄」「開目抄」「立正安国論」など、御書の講義を中心に、人材の育成にあたったのである。
 
■引用文献  注 「獄中書簡」(『牧口常三郎全集10』所収)第三文明社