小説「新・人間革命」 人間教育2 2月17日

 一九七七年(昭和五十二年)一月上旬、学会本部などの各会場名が正式に決まり、発表された。
本部三階広間の師弟会館をはじめ、創価文化会館の五階大広間は広宣会館、三、四階のホールは金舞会館、地下の集会室は地涌会館、聖教新聞社六階の大広間は言論会館と命名されたのである。
 一月十八日、その師弟会館、広宣会館を会場に、最高幹部が担当し、大ブロック幹部の研修の意義を込めた勤行会が開始されたのだ。
 二十九日に開催された、東京の江東、墨田、荒川、中央の四区合同の婦人部大ブロック担当員(現在の地区婦人部長)勤行会には、会長の山本伸一が出席した。
大ブロック幹部の成長にこそ、広宣流布の一切の勝利がかかっているからだ。
 席上、伸一は、一月半ばに訪問した和歌山県の、一婦人の体験を紹介した。
 ――その婦人と夫は、一九五四年(昭和二十九年)に、和歌山市内で創価学会の話を聞かされる。しかし、婦人は、頭から仏法を否定し、学会を蔑むようなことを言い続けた。
 学会員は、「仏法は、幸福になるための法則なんです。それを真っ向から否定していれば、いつか行き詰まってしまいますよ」と、諄々と訴えたが、聞く耳をもたなかった。
 ほどなく、夫の事業が失敗し、夜逃げ同然で、和歌山県新宮市に移り住む。再起しようと、夫婦で懸命に働くが、ますます生活は苦しくなっていった。
 多額の借金。そのうえ婦人は、胸膜炎や心臓弁膜症などの病にもさいなまれた。何もかも行き詰まった。心は、深い闇に閉ざされ、なんの希望も見いだせず、遂に生きることに、疲れ果ててしまった。
 信心の話を聞いてから、三年がたとうとしていた。彼女は、二人の幼子と一緒に、死のうと思った。そして、死と向き合った時、初めて、仏法の話を思い起こした。
 「祈りとして叶わざるはなしの御本尊よ。真剣に信心に励めば、誰でも、必ず幸せになれるのよ」との言葉が、胸に蘇った。