小説「新・人間革命」 薫風 14 2012年 2月14日

座談会で感嘆した三賀正夫は、恒光吉彦の強い勧めもあり、『もっと創価学会のことを知ろう』と、入会したのである。
恒光は、三賀と福富淳之介が入会した翌年には九州歯科大学を卒業し、故郷の宮崎県に帰っていった。
学内では、大内堀義人、三賀、福富の三人が、学生部の活動の核になっていった。
彼らの家族は、皆、創価学会に入会したことに、賛同していたわけではなかった。親にどう学会を理解させるかが、共通の悩みであり、テーマであった。
大内堀の父親は、高校の教師であり、「信心には反対だ!」と言明していた。
三賀の父親は、信心については静観していた。しかし、三賀が入会後、卒業を待たずに学生結婚してしまったことから、怒って、仕送りを打ち切ってしまった。
学会とは、全く関係のないことであったが、父親は、信心と結びつけて考えたようだ。やむなく三賀は、塾の講師などのアルバイトや、奨学金によって、生計を立てた。
福富の父親は、入会したことについて、福富自身には、何も言わなかった。
しかし、福富の母親には、「淳之介は何を考えているのだ!」と語っていた。そして、入会した翌月から、仕送りは激減していった。
彼も、アルバイトで、牛乳配達や塗装の手伝い、家庭教師などをして働いたのである。
そんな彼らを、励ましてくれたのが、学生部の先輩たちであった。ある先輩幹部は、こう激励してくれた。
日蓮大聖人の門下に、池上兄弟として知られる、兄・宗仲、弟・宗長がいた。父の康光は、極楽寺良観にたぶらかされて、兄弟の信心に反対し、兄の宗仲を二度も勘当する。
大聖人は、この池上兄弟に、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず』(御書一〇八七p)と言われている。大聖人の仏法は、万人を成仏させる最高の教えだからこそ、その信心を阻もうとする魔が競い起こってくるんだよ」