小説「新・人間革命」 薫風 55 2012年4月2日

山本伸一は、徳永明と妻の竹代に、力を込めて訴えた。
「大聖人は、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや』(御書一一二四㌻)と断言されている。
何があっても、悠々と題目を唱え抜き、信心の炎を燃やし続けていくならば、どんな病にも、負けることは絶対にない。
必ず幸せになれるんです! 師子吼のごとく、仏法、学会の正義を叫び、戦い抜いてください」
彼らは、目を輝かせて、生涯、広宣流布に生き抜くことを誓ったのである。
徳永夫妻が寄贈した師子の像は、「佐賀師子」と呼ばれて皆から親しまれ、後年、佐賀県創価学会の重宝となるのである。
伸一は、佐賀文化会館の庭で、会う人ごとに言葉をかけ、激励を続けた。
車イスに乗った女子部員を見ると、近づいていって、「よく来たね。広宣流布の法城に駆けつけようという心が立派です。
苦労したんだね」と声をかけた。車イスを押していた母親には、「唱題し抜いていくならば、何があっても大丈夫ですよ」と訴えた。
伸一は、庭のベンチの前に来ると、昨日、懇談した創価大学の学生部員らに語りかけ、一緒に記念撮影した。
さらに、近くにいた数人の男子高等部員とも、カメラに納まった。
もし、伸一の生涯を貫くものを一言で表現するなら、「広宣流布」であることは言うまでもない。
さらに、彼を貫く行動を一言するなら、「励まし」にほかなるまい。
出会った一人ひとりに、全精魂を注ぎ、満腔の期待と祈りを込めて激励し、生命を覚醒させていく――地味と言えば、これほど地味で目立たぬ作業はない。
しかし、広宣流布は、一人ひとりへの励ましによる、生命の開拓作業から始まるのだ。
だから、伸一は、必死であった。華やかな檜舞台に立つことなど、彼の眼中にはなかった。
ただ、眼前の一人に、すべてを注ぎ尽くし、発心の光を送ろうと懸命であった。