教師こそ最大の教育環境なり ㊦2012.3.2/3

「教育のための社会」の旭日に
 
牧口先生
劣等生なんていない 皆が優等生になれる
 
 学校全体の調和と発展を願う青年教育者の祈りは、児童・生徒を包み、さらに、その子どもたちに関わる教職員にも広がっていくものでしょう。
 祈りの第2の項目は、「全教職員からの信頼」です。
 教育現場は、教育という「総合芸術」の舞台です。共に働く教員の方はもちろん、とくに、学校を陰で支えてくださる職員の方を大切にすることを心がけていきたい。
 学校は、ともすれば教員が主、職員が従になりがちです。しかし、職員の方々の尊き陰徳の支えなくして、子どもたちの健やかな学校生活も、学校の確かなる運営もできません。陰の人を大切にする感謝の心こそ、学校という世界を信頼で結合し、麗しき人間教育の園とする力ではないでしょうか。
 2001年、カリフォルニア州オレンジ郡に開学したアメリ創価大学(SUA)も、実に多くの方々の真心があればこそ、目覚ましい大発展を遂げることができました。
 学生生活の一切の原動力である食事を担当する学内食堂のスタッフも、食習慣の異なる世界の各国から集った学生たちのためにと、それはそれは真剣に心を配り、工夫を凝らしてくださっています。
 その中に、SUAのお母さんと慕われる調理スタッフの婦人がいました。「わが命である学生を、よろしくお願いします」との私の心に応えて、50代から大学の調理科で学び磨いた料理の技と、心づくしのおふくろの味で学生たちを力づけてくれたのです。体調を崩して寮で心細く寝込んでいる時、このお母さんの温かな差し入れに感涙した学生など、エピソードは枚挙に暇がありません。
 昨年、SUAの卒業生たちは、このお母さんの10年間の勤務に最大の尊敬と感謝を込めて、同窓生の総意として、真心からの賞を贈呈したと聞いています。
 最先端の学識への旺盛なる探究とともに、お世話になった方々の恩義に報いていこうとする豊かな人間性の涵養が、SUAの誇り高き伝統となって光っています。
 SUAを訪問した多くの世界の識者の方々も、この点に注目しておられました。連載の第1回でご紹介したデューイ協会のガリソン博士は、学生や教授陣が、大学の職員と親しく心を通わせ、対話を交わす姿を見て、「これだけでも私は、SUAが実に素晴らしい学舎《まなびや》だと感じました」と、私との対談で語っておられました。
 ともあれ、それぞれの学校に、目立たなくとも、なくてはならないスタッフがいます。そうした方々と共に手を携えていく中で、多くのことを学び、自らを省みることができます。
 とともに学校は、どの職場にもまして、朝が勝負です。「朝に勝つ」こと、そして「清々しい挨拶」から一日を出発していきたいものです。
 御書に「釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)とあるように、仏法では「人の振る舞い」を重視します。善き人間としての善き「振る舞い」ができてこそ、真実の人間教育は可能となりましょう。
 さらにまた、自らの教育技術の向上に徹して取り組むことです。
 牧口先生は「いわゆる劣等生とは、みんなが勝手にいっているにすぎない。子どもたちに、考える基本をしっかり教えたうえで、その能力を発揮させれば優等生になるのだ」と主張されました。教授法を徹底して研究し、発展させることを、教師の本分とされたのです。教師の努力と知恵によって、子どもたちの学力は大いに伸ばしていくことができるからです。
 現在、自分の夢だった新聞記者として活躍する青年の話を聞きました。
 転機は小学4年生の時です。当時は、勉強が大の苦手でした。担任の先生は、宿題の出来具合にそって、花丸の印を付けてくれたといいます。よくできたら1個、さらに3個、5個と。花丸が多い人の宿題は、みんなが見えるところに掲示されました。
 他人との比較ではなく、子ども一人一人の頑張りを受けとめて、讃えてくれたのです。掲示されるのがうれしく、誇らしくて、どんどん宿題をするようになり、気がつけは学力が伸び、勉強が好きになっていたといいます。
 本来、子どもたちは、皆、わかりたい、知りたいという向学の心を持っています。その思いを、どう引き出し、どう応えていくか──ここに、経験を積み、創意を重ねながら、鍛え上げていく教育技術があります。
 よき先輩教員からも大いに吸収し、よき同僚と大いに切磋琢磨していくことです。開かれた向上の姿勢があってこそ、周囲の教職員から信頼を勝ち取ることができるのです。
      
第3に「全保護者からの信頼」です。
 御聖訓には「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」(御書721ページ)と仰せです。
 教育の起点が、子を育む母の慈愛にあることは、あらためて申し上げるまでもありません。
 子どもの幸福の大地は、家庭から広がります。子どもたちを学校へ送り出してくれる保護者の方々との信頼と連携は、誠に重要です。
 ある女性教育者の奮闘を伺いました。
 担当のクラスは荒れていました。一人の男子児童が中心となって乱していたのです。この子さえいなければと思いつめるまで、気持ちが追い込まれたこともあるといいます。
 しかし、祈りを重ねるなかで、問題を抱えた家庭に育ち、そのストレスのために学校で暴れていた、児童の心が痛いほど伝わってきました。
 一番苦しんでいるのは、その児童自身であることに気付いたのです。
 「よし! 私自身が、あの子の一番の安全地帯になろう。すべてを受け止めていこう」と決心し、毎朝、自分から声をかけ、できたことはすぐにほめるようにしたそうです。帰る際には、どんなことがあっても笑顔で見送ったといいます。
 また、その子の良い面を見つけては、一つ一つ、親御さんにも伝えるようにしました。当初、子育てに自信を失っていましたが、明るくなって、学校にも相談に来るようになりました。
 すると、その児童は目に見える形で変わっていきました。友だちに謝れるようになり、仲良く過ごせるようになっていきました。親御さんも、「息子はこの1年間で本当に変わりました。たくさんお手伝いしてくれ、笑顔が増えました。本当にありがとうございました」と、涙を流し語ってくれたそうです。
 教育は、学校制度の中だけで行うものではありません。
 家庭、地域、社会……子どもたちを取り巻く環境を、その子の教育のために、最善の環境にしていくこと──私は、それを「教育のための社会」の一側面として提言してきました。
 学校と家庭、学校と地域、それぞれが声を掛け合い、力を合わせて、子どもたちを守り、育んでいくこと。そのチームワークが、今ほど要請される時代はありません。良識豊かに学校と教師を支えていく保護者の協力も、ますます大事になっています。
 保護者から教師への信頼は、教師が安心して子どもたちのために尽くせる自信となります。
 一般社会に、いわゆるクレーム(苦情)が渦巻いている世相のなかで、学校に寄せられる声にも、さまざまなものがあることでしょう。
 教師の人知れぬ苦労を、保護者をはじめ社会全体が理解し、温かくサポートしていくことを、忘れてはならないと私は思います。
 そのうえで青年教育者の皆さん方に、お願いしたいのは、一つ一つが勉強であると心を定めて、誠実に、聡明に、毅然と、そして忍耐強く、「子どもの幸福」のため、家庭と共に前進していくことです。
 また、若い教育者である皆さんには、自分自身が一人の子どもとして親孝行をしていただきたい。その努力は、保護者の心の機微を理解し、汲み取ることにも通ずるはずです。「親を思う子の心」と「子を思う親の心」は響き合わないわけがないからです。
 ある時、第一線で苦労を重ねる先生方と、語り合ったことがあります。
 ──仏法の永遠の生命観から見れば、今世で出会う人は、すべて何らかの宿縁がある。うんと手のかかる子や、難しい保護者の方などは、自分がきっと過去世に何かでお世話になった方と思い、その恩返しと決めて、真心込めて接していこう。それくらい、大らかな悠々たる気持ちで、人間教育の聖業を断行していこうではないか、と。
 御書には、こう仰せであります。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(557ページ)
 私たちの唱える題目には、ありとあらゆる人の生命から、仏性という最極の善性を呼び覚ましていく響きがあります。朝の強盛なる祈りから、「子どもの幸福」という大目的に向かって、全生徒、全教職員、全保護者の力を引き出し、結集しゆく、希望の回転が着実に始まるのです。
 大事なことは、毎日毎日、太陽のように、たゆまず、我慢強く持続していくことでしょう。
 どうか、「祈りとして叶わざるなし」の信心を根本に、大仏法の「勇気の力」「忍辱(忍耐)の力」「随縁真如の智慧」を光らせ、一つ一つ勝利の実践記録を打ち立てていってください。