小説「新・人間革命」 人材城 14 2012年 4月25日

熊本文化会館の開館記念勤行会が行われた二十八日の午後五時過ぎから、山本伸一は、本部長ら四十人ほどとの懇談会に出席した。
会場は、学会員が営む食堂であった。
最初に、トンカツ定食に舌鼓をうち、それから、伸一を囲んで語らいが始まった。
一人の婦人が報告した。
益城本部の本部長・坂上良江です。
昭和三十三年(一九五八年)十一月十六日に、山本先生は、初めて熊本県を訪問され、熊本市内の体育館で行われた、熊本支部結成大会に出席してくださいました。
その時、先生は、長崎県の島原から船に乗られて三角港に着かれ、三角駅から列車で熊本駅に向かわれました。
その三角が、わが本部内にあります。先生の熊本県訪問の第一歩が三角であることが、私たちの誇りです」
伸一は、懐かしそうに笑みを浮かべた。
「よく覚えています。港には、熊本支部長になった野瀬栄治さんたちが迎えに来てくれていた。
列車が出るまでの時間を使って、旅館を営んでいる学会員のお宅を訪問しました。
一人でも多く、同志を励ましたかったんです。
そのころの三角駅は、小学校の校舎のような木造の駅舎でした。
私は、駅で、列車を待つ間、『戸田先生なら熊本の同志を、なんと言って励ますか』と、真剣に考え続けていたんです。
先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、この年の四月に亡くなられた。
だから、『戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう! そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう』と、心に決めていたんです。
それだけに、必死でした。師をしのぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。
その勝利のなかに、師弟不二があるんです」
それは、恩師の逝去から、七カ月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、三十歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。