小説「新・人間革命」 勇将 7 2013年 2月20日

発迹顕本──迹を発いて本を顕す。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すことを意味する。
 日蓮大聖人が、鎌倉・竜の口で、まさに頸を斬られんとした時、江の島の方向から、「月のごとく・ひかりたる物」(御書九一四p)が現れる。
 その光は、月夜のように明々と人びとの顔を照らした。
 大聖人を斬首しようとした兵士は、目がくらみ、倒れ伏し、皆、怖じ恐れて、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのである。
 「近く打ちよれや打ちよれや」(同)と、大聖人が声高に呼んでも、誰も近づこうとはしない。
 「頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる(見苦)しかりなん」(同)と叫んでも、返事もない。
 結局、頸を刎ねることはできなかったのである。
 諸天は、大聖人を守護し、大宇宙を動かしたのである。
 法華経には「刀尋段段壊」(刀は尋いで段段に壊れなん)とある。
 それは、一切衆生を救済せんとして戦い続けてこられた大聖人が、凡夫という「迹」の姿を開いて、その身のままで久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の御本仏の本地を顕された瞬間であった。
 大聖人は門下に対しても、次のように仰せである。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(同一三六〇p)
 大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く創価の同志は、地涌の菩薩であり、その内証は久遠の仏の弟子なのである。
 大聖人の誓願は、敷衍して言えば、御自身が発迹顕本されたように、末法の一切衆生を発迹顕本させることにあったといえよう。
 すなわち、一人ひとりに地涌の菩薩の使命と実践とを教え、御本仏の弟子として、仏の境涯を顕すことを念願されていたのだ。
 熱原の法難をもって、大聖人が出世の本懐を遂げられたのも、殉難をも恐れぬ、農民信徒の強盛なる信心に、衆生の発迹顕本を御覧になったからであろう。