激闘42  2014年5月10日

利安真吉は、真剣な目で、何度も頷きながら、山本伸一の話を聴いていた。
伸一は言った。
「それで、鹿児島県総会はいつにしますか」
利安は、口ごもりながら答えた。
「はあ、総会ですから……、年内ですと、秋ごろでしょうか」
すかさず、伸一は言った。
「日程は、具体的に決めていくことが大事なんです。あいまいなままだと、実現せずに終わってしまうことが多いんです。
よく学生時代の友人などと、『今度、ゆっくり会いましょう。連絡しますよ』と口約束しても、そのまま何年もたってしまうことがあるでしょう。
しかし、その場で、日程を決めておけば、実現できるものなんです。
総会は、もっと早い時期に開催してはどうでしょうか。そうですね、たとえば六月とか」
「今日は、五月の十六日ですから、せめて七月でないと……」
「それでは、七月がいいでしょう。
指導者には、慎重に熟慮を重ねる面と、即断即決と両方がなければなりません。
全体を引っ張って、脱皮を図るには、まず、県長が決断して、それを皆に諮り、細かく検討していくということも、時には必要なんです」
伸一が第三代会長に就任して以来十八年で、日本の広宣流布の盤石な基盤が整い、学会は世界へと飛翔した。
また、人間主義を基調とした平和・文化運動の潮流も大きく広がった。
それを可能にしたのは、伸一の柔軟にして迅速な決断と、電光石火の行動であったといえよう。
近代日本の道を開いた薩摩の指導者・島津斉彬は、「勇断ナキ人ハ事ヲ為スコト能ハザルナリ」(注)と語っている。
鹿児島県総会の件は、同日夕刻の県最高会議で協議され、七月上旬の開催が決定。翌五月十七日付の「聖教新聞」一面に大きく掲載された。
県総会の報道に、鹿児島県の同志は沸いた。「青年の月」七月に向かい、新たな希望の前進が開始されたのである。