激闘67  2014年6月10日

本部幹部会で山本伸一は訴えていった。
日蓮大聖人は、『本迹の相違は水火天地の違目なり』(御書九九六p)と仰せになっております。
迹門と本門とは、大きな違いがあることを述べられている御文です」
迹門の「迹」とは影、跡のことで、本門の「本」とは本体を意味する。
たとえば、天空の月を「本」とすれば、池に映った月は「迹」である。
また、「門」とは法門のことである。
この「本」と「迹」をもって、法華経二十八品を立て分けると、前半十四品は「迹門」となり、後半十四品は「本門」となる。
それは、法華経の前半は、初めて菩提樹の下で成道した釈尊の所説を記した経文であるからだ。
その釈尊は、仏が衆生を救うために顕した仮の姿、迹仏にすぎないのだ。
一方、法華経の後半が「本門」となるのは、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に成仏していたという、仏の本地、真実が明かされた法門であるからだ。
久遠以来、仏は、この娑婆世界で永遠に戦い続けている──これが本門の教えである。
伸一は力説した。
日蓮大聖人の法華経文底から見れば、南無妙法蓮華経が『本』であり、文上の法華経は、迹門、本門ともに『迹』となるのであります。
それは、南無妙法蓮華経こそが、末法流布の大法であるからです。
大聖人の仏法を広宣流布していく私どもの立場から、この『本』と『迹』について考えるならば、次のようにとらえることができます。
広宣流布を口にしても、本当の実践がなく、ただ単に、観念的な理論を振り回しているだけであれば、それは『迹』にすぎません。
それに対して、現実のうえでの実践、振る舞いこそが『本』となります。
広宣流布を推進するために、実際に諸活動に参加する。功徳の実証を示し、信仰体験をもって、仏法対話を展開してい
──そうした事実上の行動こそが、最も重要な『本』なんです。
つまり、いちばん大事なことは、現実に広宣流布のために何をしたかということです」