求道10  2014年6月24日

野崎裕美は、入会半年後の一九五六年(昭和三十一年)正月、登山会の折に、仙台から共に参加した数人の女子部員と、初めて第二代会長の戸田城聖と会った。
冬の寒い日であった。戸田は、「仙台から来たのか」と言って、売店でソバを振る舞ってくれた。
湯気の立ち上るドンブリを、かじかんだ指で持ち、ふうふう言いながらソバをすすった。
戸田は、一緒にソバを食べながら言った。
「温かいな。みんなの心も、このソバ汁のように温かくなければいけない。特に青年は、親孝行のできる温かい心、大きな心をもたなければならぬ。
親を愛せないようでは、人を救うことなど、できるわけがないよ」
その言葉は、裕美の胸に響いた。
当時、彼女は、仙台で希望する仕事に就けなかったことから、悶々とした日々を送り、絶えず母親とぶつかっていた。
「仙台に来なければ、もっといい仕事があったのに、母さんが帰って来いなんて言うから、こんなことになったのよ」
そんな言葉を母に浴びせていたことが、戸田に見透かされてしまった気がした。
裕美は、女手一つで育ててくれた母への、感謝を忘れていた自分を恥じた。
また、自分の思い通りにならないと、人のせいにしてしまう生き方を反省した。
「人の世に生まれて、すこやかに生い立つまでは、人の恩を受ける事いかばかりぞ」(注)これは、山本伸一が交流を結んだ東北出身の作家・野村胡堂の言葉である。
裕美は、真剣に信心に励んだ。そして、五七年(同三十二年)、東北大学医学部付属病院に栄養士として就職することができた。
翌年、四月二日、戸田城聖が逝去した。深い悲しみに沈んだ。
また、念願であった栄養士の仕事に就いたものの、残業の連続で、学会活動との両立が大きな悩みとなったのだ。
さらに、母親も胃潰瘍を再発したのである。
心に暗雲をかかえながら、時間を絞り出すようにして学会活動に参加した。