求道28  2014年7月16日

慶長十六年(一六一一年)十月、仙台をはじめ、北日本地震が起こる。地震の被害は、それほど大きくはなかったが、大津波に襲われたのだ。
三陸地方では、津波の高さが二十メートルに達し、仙台平野は、瞬く間に波にのまれていった。
駿府記』によれば、伊達領内での溺死者は五千人とある。塩害によって、農作物にも甚大な被害をもたらした。
さらに、五年後の元和二年(一六一六年)七月にも大地震が起こり、青葉城の石垣などが崩れる。この時も津波に見舞われている。
伊達政宗は、慶長十六年の地震津波のあと、スペイン人の力を借りて、大型の洋式帆船の建造に着手する。
この船を使って海外貿易を計画し、支倉常長らを欧州に派遣したのだ。
外国との交易によって、地震津波による窮状から脱しようとしたのであろう。
なんとしても、仙台を復興させたいとの必死さが、彼の、世界への眼を開かせ、新しき決断を促したにちがいない。
だが、幕府がキリスト教の禁教令を出したことなどから、遣欧使節の交渉は失敗に終わっている。
なお、この遣欧使節については、政宗が、徳川討幕のために、スペインと軍事同盟を結ぶことを目的としていたとの説もある。
ところで、支倉は、決して高い家柄の武士ではない。能力を見込んでの登用であろう。諸般の事情から、使節の目的は達せられなかったが、ここにも政宗の優れた決断がある。
家柄、肩書に目を奪われることなく、人間の力を、真摯に、鋭く見すえて、人を配していく――これは、人事を行ううえで、極めて重要な観点といってよい。
いかなる団体や社会も、真に実力ある人物を見つけ、登用することに最大の努力を払っていかなければ、激動の時代を乗り越えていくことはできない。
繁栄の基は人材にある。
政宗は、詩歌の才もあり、能や料理にも精通していた。
彼は、仙台の伝統となっている七夕も、深く愛でていたといわれる。政宗のそうした素養が基盤となって、文化の薫り高い仙台が創り上げられていったのであろう。
 
■語句の解説
駿府記/徳川家康が将軍職を譲り、駿府静岡市)に移ったのちの一六一一年から一六年までの、政治情勢等についての記録。