小説「新・人間革命」広宣譜8 2014年 11月26日

宗門は、学会が初代会長の牧口常三郎を「先師」と呼んでいることも問題にした。「日興遺誡置文」では、日蓮大聖人を「先師」としているにもかかわらず、牧口のこともそう呼ぶのは、「大聖人と牧口会長は同じ意味になるのですか」と質問してきたのだ。
学会では、第二代会長の戸田城聖と初代会長の牧口を区別するために、戸田を「恩師」とし、牧口を一般用語としての「先師」と呼んできたにすぎない。
宗門の、こうした質問の背景には、学会は「会長本仏論」を立てているとの曲解と邪推があったのである。
この点について、末法の御本仏は日蓮大聖人お一人であり、それは、「末法万年にわたって変わらぬ根本義」であることを再確認した。
そして、「日蓮大聖人が末法御出現の御本仏であることを、折伏をもって世界に知らしめてきた」のが、半世紀にわたる学会の苦闘の歴史であったことを訴え、こう述べた。
「日常の自行において、また化他行において、すべて日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、日蓮大聖人の魂をとどめられた御本尊を信心の根本対境とし、日蓮大聖人の仏法の広宣流布を実践の大目的としてきたのが、学会精神の骨髄である。
故に、学会には本来、会長本仏論などということは絶対にない」
末法という「時」もわからず、長い間、釈尊を仏とするのが日本人の仏教観であった。
そのなかで、かくも多くの民衆が日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、御本尊根本に広宣流布に邁進しているのは、牧口、戸田に連なる創価の師弟が、それを叫び抜いてきたからだ。
この事実をもってしても、会長本仏論なるものが、妄想の産物であり、学会攻撃のための口実であることは明白であろう。
「悪人はねじけた作り話を言いひろめて、潔よいひとを傷つけ、しかも誓ってそれは本当だと言うだろう」(注)これは、古代ギリシャの詩人ヘシオドスの言葉である。
正義の人を陥れようとする悪人の手口は、今なお一緒である。