小説「新・人間革命」広宣譜61 2015年 2月2日

山本伸一は、本部幹部会が行われた七月二十二日も、訪問指導に出かけていった。彼の調は優れなかった
が、自分を待っている人たちがいると思うと、ゆっくりと休むことなどできなかった。
この日は、県北西部の境港市まで足を運び、個人会館を訪問。夕刻には米子市内で職員の代表と懇談し、さらに同市の個人会館を訪れたのである。
鳥取は、日本一、人口の少ない県である。その鳥取に幸せの沃野を拓き、ここから、広宣流布の新しい波動を起こしていきたかったのである。一つの県、地域が、模範の宝土となれば、全国を変えていくことができる。
「一」は、一切の始まりである。
伸一は、鳥取県を発つ二十三日にも、午後零時半から勤行会をもった。県幹部の「まだ、先生にお会いしていない方がおります。
最後に、もう一度、勤行会を行ってください」との要請を受けて開催したものである。
会館には、千人ほどの人が集って来た。
彼は、出発の予定時刻を過ぎても、あと一分、あと三十秒と、額に汗を滲ませ、ぎりぎりまで励ましを重ね、岡山へ戻っていった。
列車の中で、伸一の胸には、既に新しい歌詞が次々とあふれ、こだましていた。
彼が手がけようとしていたのは、新高等部歌である。
鳥取に向かう前、高等部長の奥田義雄と女子高等部長の大崎美代子が、新しい高等部歌を作成したいと言って、岡山文化会館にやって来たのである。
伸一は、未来を担う高等部員のために、歌を作詞して贈ろうと思った。
午後五時前、彼が岡山文化会館に到着すると、岡山の県幹部らと共に、十数人の高等部員と中等部員が出迎えてくれた。
岡山未来会の第一期生であるという。
会館のロビーでは、四国長の久米川誠太郎らが出迎えた。
「先生、四国の歌の曲ができました!」
三日前、岡山から米子に向かう車中で、四国の歌「我等の天地」を作詞した伸一は、直ちに作曲に入るように伝えていたのである。