小説「新・人間革命」 広宣譜64 2015年 2月5日

メロスは負けなかった。肉体の疲労の回復とともに、信頼に報いようとの心が蘇る。
彼は走る。友のため、信実と愛のために。口から血を吐きながらも走る。
残光が消え、親友・セリヌンティウスが命を奪われようとした刹那、メロスは刑場に走り込む。
縄を解かれた友に向かって彼は叫ぶ。
「私を殴れ」──途中で一度、友を見捨てようとの思いをいだいたことを告げる。
セリヌンティウスは、メロスを力いっぱい殴打すると、「メロス、私を殴れ」と言い、一度だけ疑いの心をもったことを明かす。
メロスも彼を殴打し、二人は、抱き合う。
その光景を見ていた王は言う。
「おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。
どうか、わしも仲間に入れてくれまいか」
「猜疑」に「信実」が勝ったのである。
山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)秋、『走れメロス』を題材にした詩「メロスの真実」を書いた。偽りと惑わしに充ちた人の世を、最も高尚にして美しく、潔癖な、確かなる希有の実在に転換したメロスの強い真実は、何処にあったのかを詠んだものだ。
それは、「汝自身の胸中の制覇にあったのだ」と、伸一は結論した。
そして、転向者には「一歩淋しく後退した時 さらに己れを後退させる あの自己正当化の論理がある」と指摘し、「友を捨てた安逸には 悔恨の痛苦が 終生離れぬだろう」と記す。
詩は、こう結ばれている。
「私は銘記したい 真の雄大な勇気の走破のみが 猜疑と策略の妄執を砕き 人間真実の 究竟の開花をもたらすにちがいない と」
伸一は、今、新高等部歌を作るにあたり、高等部員は、世界の平和と人びとの幸福の実現をわが使命と自覚し、人間の信義を、生涯貫くメロスであってほしいと思った。
人生のあらゆる誘惑に惑わされるな! 己の怠惰に負けるな! 見事に、自ら定めた誓いの道、使命の道を走り抜いてほしい
彼は、心で祈りつつ、作詞を続けた。
 
■引用文献
小説『走れメロス』の引用箇所は、太宰治著『富嶽百景 走れメロス他八編』岩波書店