小説「新・人間革命」大道 4 2015年2月14日

翌七月二十五日午後、四国に草創の支部が結成されて二十二周年を迎えることから、その記念幹部会が四国研修道場で開催された。
この集いでも、四国の歌「我等の天地」を大合唱し、喜びの波動は広がっていった。
席上、山本伸一は、「阿仏房御書」(御書一三〇四p)を拝して指導した。
本抄で日蓮大聖人は、「末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。
もしそうであれば、身分の貴さや賤しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身が宝塔であり、また、その人自身が多宝如来なのである」(通解)と御断言になっている。
宝塔とは、法華経に説かれた、金、銀、瑠璃など、七宝をもって飾られた壮大な塔である。
多宝如来とは、法華経こそ万人成仏の真実の教えであることを証明する仏である。
現実の世界で日々苦闘する生身の人間が、信心に励むことによって、そのままの姿で妙法の当体、すなわち宝塔として金色燦然と光り輝き、また、多宝如来として真の仏法の偉大さを証明していけるというのだ。
初代会長・牧口常三郎も随所に線を引き、深く拝していた御書である。
伸一は、そのあとにある、「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」の一節を引いて訴えた。
「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。
これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。
したがって『此れより外の才覚無益なり』──「これだけ知っていればいいのですよ」と言われているんです。
本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。
ですから、いつ、どこにいようと、自分のいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。なんの心配もありません」