小説「新・人間革命」 革心42 2015年 6月18日

鄧穎超は、北京から戻り、天津の女学校で教壇に立つことになった。
天津にあって、彼女が最も情熱を注いだのは、中国の封建的な思想、習慣、制度のなかで、自由も、尊厳も奪われ、「奴隷」のように生きなければならなかった多くの女性たちの解放であった。
一九二三年(大正十二年)、抑圧から女性を救う運動を展開していくため、彼女は、同志と共に、「女星社」を組織した。
そして、旬刊誌『女星』を創刊。翌年には、女性新聞「婦女日報」も発刊した。
女性の苦しみを解決するには、社会そのものを変革するしかない。では、女性が解放され、自立していくには何が必要か──
鄧穎超は、考え、悩む。
「人びとは、無知であるがゆえに騙され、支配され、人間としての権利をも剥奪されている。教育の門戸を開こう。
教育こそ、人民を支え、育む力である」と、彼女は結論する。
直ちに貧しい主婦たちのために、「女星日曜義務補習学校」を設立。教師は「女星社」のメンバーで、学費は無料である。
さらに、彼女は、ほかの団体とも協力して、「直隷省平民教育促進会」を誕生させ、理事として活動を推進していった。
その結果、天津には、百を超える平民学校がつくられたといわれる。
鄧穎超は、まだ二十歳であった。しかし、既に教育者としての名声は高かった。
この間、周恩来と文通を続けた。
彼は、ヨーロッパへの途次、中国人に対する侮蔑も体験した。フランスでは、低賃金で労働に励まなければならぬ中国人留学生の現実を目の当たりにした。
周恩来は、イギリスの大学への留学を考え、エジンバラ大学から入学を許可された。
しかし、奨学金が得られず、大学進学を断念し、フランスに戻っている。
ロシアでは、一七年(同六年)のロシア革命ソ連邦が誕生していた。周恩来も、その強い影響を受け、共産党員となった。祖国改革の道として、共産主義を選んだのである。