小説「新・人間革命」 革心44 2015年 6月20日

鄧穎超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。
国民党と共産党は、協力して軍閥と戦うために、国共合作に踏み切った。
天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。
一九二五年(大正十四年)三月、中国統一をめざした「国民革命」の指導者・孫文が死去するが、彼女は、黙々と、自身の定めた信念の道を突き進んでいった。
人民の中へ――鄧穎超は、工場や農村を回った。蔑まれ、虐げられ、地を這うようにして働く女性たちに、社会の改革を訴えて歩いた。
また、孫文夫人の宋慶齢をはじめ、指導層の夫人と交流を深め、彼女たちが前面に躍り出て活動できるようにお膳立てし、自分は陰の力に徹した。
日英の帝国主義打倒や、租界の撤廃も叫んでいった。
列強の息のかかった軍閥は、鄧穎超を「最危険分子」と見なした。
母とも別れ、天津を離れるしかなかった。
髪型を変えて、ズボンをはき、目立たぬ衣服で天津を脱出した。上海から船で向かった先は、国民政府があり、周恩来のいる広州であった。
彼は、一年前に帰国していたが、〝最愛の人〟に会いに行くことより、改革の使命の遂行を第一義とし、直ちに任務に就いた。
広州で周恩来は、国民革命軍のリーダー育成のための黄埔軍官学校政治部主任や、共産党の広東区委員会委員長等を兼ね、激務をこなしていた。
鄧穎超が港に到着した時も、迎えに行くことさえできなかった。
しかし、彼の質素な部屋には、彼女が大好きな花が飾られていた。この日、彼は家に帰れなかった。
二人が五年ぶりに再会したのは、翌日である。洋食店で食事をした。互いの胸には無量の感慨が詰まっていたにちがいない。
だが、見つめ合うばかりの、言葉少ない語らいであったという。これが二人の結婚式となった。周恩来二十七歳、鄧穎超二十一歳であった。
建設は死闘である。私生活のすべてを、いや、命をも、人民のために捧げた多くの人たちがいて、新中国は築かれたのだ。