小説「新・人間革命」勝利島13 2015年 8月4日

島の人びとの心に兆した誤解や偏見は、日蓮仏法、創価学会を、島の風俗、習慣、伝統とは相いれないものとして、排除しようとする動きとなっていく。
特に、信心を始めた人が、地位も財力もない、弱い立場であればあるほど、周囲の反発、圧力は激しく、弾圧、迫害となってエスカレートしていく。
時には、人権を脅かす村八分や暴力事件となることもあった。
島に逃げ場はない。
あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、駐在所もなく、警察官がいない島も少なくない。
また、警察官はいても、島の複雑な力関係のなかでは、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。
そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。
九州北西部の本土から約二キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、一九六〇年代に迫害の嵐が吹き荒れた。
五九年(昭和三十四年)五月、島で最初の学会員夫妻が誕生した。
近野春好と妻のマツである。
マツがひどい更年期障害で苦しんでいた時、長崎県佐世保の知人から仏法の話を聞き、楽になるならと入会した。
信心を始めた直後から、マツは、体にも心にも、まとわりついていたような重さが抜け、病状の好転を実感した。
これが知人の言っていた「初信の功徳」かと思った。
歓喜した夫妻は、教えられた通りに、弘教に励んだ。
精神的にも不安定で、ふさぎ込んでいたマツが元気になり、はつらつと仏法を語る姿に、地域の人たちは驚き、数カ月の内に四世帯が入会した。
翌年八月、夏季地方指導が行われ、会員世帯は大幅に拡大。当時の学会の最前線組織である「組」ができ、やがて二十二世帯に発展する。
さらに、六一年(同三十六年)八月の夏季地方指導では、「班」が結成される。すると、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」(御書一〇八七ページ)の文のごとく、障魔の嵐が猛り始めたのである。