小説「新・人間革命」 雄飛 五 2017年6月20日

常書鴻が敦煌莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに陸の孤島であった。
周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばならなかった。
もちろん、自家用車などない。
土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。
満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。
近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。
彼より先に敦煌に住み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役だね」と、冗談まじりに語った。 
しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。
「この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」
覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生の勝利もある。
また、それは仏法者の生き方でもある。
ゆえに日蓮大聖人は、「よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。
莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機に瀕していた。
その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。
作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。
気の遠くなるような果てしない労作業である。
だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価を受けるようになったのである。
この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。
二人は、一九九二年(平成四年)までに七回の会談を重ねることになる。
そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩──美と人生を語る』が発刊されている。
未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。