小説「新・人間革命」〉 勝ち鬨 六十八 2018年2月28日

秋田文化会館では、大勢の同志が山本伸一を待っていた。
会館の庭には、伸一が認めた「秋田桜」の文字を刻んだ記念碑が設けられ、その除幕式や記念植樹の準備ができていた。
会館に到着した伸一は、雲間から降り注ぐ太陽の光を浴びながら、除幕、植樹をし、皆で記念撮影もした。
伸一が、会館の構内を視察していると、案内していた県長の小松田俊久から、玄関前の広場に名前をつけてほしいと要請された。
「昨日は、雪だったようだが、今日は晴れた。
『晴天広場』というのはどうだろうか。
嵐も吹雪も、必ずいつかは収まり、晴れの日が来る。また、そうしていくのが信心だ」
小松田は、顔をほころばせた。
「『晴天』は、私たちの誓いです」
──十年前の一九七二年(昭和四十七年)七月、日本列島は大雨に見舞われた。
東北指導のため、伸一が仙台を訪問した九日までに、九州、四国方面では山崩れや崖崩れが発生し、二百人近い死者、行方不明者が出ていた。
「昭和四十七年七月豪雨」である。
秋田県でも大雨となり、県北では、河川の氾濫による浸水害が多発した。
秋田では十二日に、伸一との記念撮影会が予定されていた。
だが、この豪雨のために、やむなく中止とした。しかし、伸一は、山形県での記念撮影会を終えると、十一日に秋田入りしたのである。
"皆、水害に遭い、暗い気持ちでいるにちがいない。
だから、万難を排して秋田へ足を運び、いちばん大変な思いをしている人たちを励まそう"との思いからであった。
秋田会館を訪れた彼は、県内各地の豪雨被害の詳細な状況を尋ね、幹部の派遣や被害者へのお見舞いなど、矢継ぎ早に手を打っていった。
会館で行われていた会合にも出席し、「変毒為薬」の信心を訴えたのである。
この日は、既に雨もあがっており、空は美しい夕焼けに包まれた。
以来、秋田の同志にとって、晴天、夕焼けは、豪雨という試練を越えた象徴となったのだ。