小説「新・人間革命」 勝ち鬨 七十一 2018年3月3日

入会した佐藤幸治は、真剣に学会活動に取り組んだ。生来、生真面目な性格であった。
当時、秋田は、蒲田支部の矢口地区に所属しており、山本伸一の妻の両親である、春木洋次と明子が、地区部長と支部婦人部長をしていた。
二人は、毎月のように交代で、夜行列車に十二時間も揺られて、秋田へ指導、激励に通い続けた。
そして、佐藤たちに、信心の基本から一つ一つ丁寧に、心を込めて教えていった。
一緒に個人指導、折伏にも歩いた。御書を拝して、確信をもって、仏法の法理を語っていくことの大切さも訴えた。
純朴な愛すべき秋田の同志は、砂が水を吸い込むように、それらを習得し、急速に力をつけていった。
信心の継承は、実践を通してこそ、なされる。先輩の行動を手本として、後輩は学び、成長していくのである。
佐藤の入会から一年後の一九五四年(昭和二十九年)には、八百世帯の陣容をもって秋田大班が誕生し、さらに、五六年(同三十一年)には、秋田支部へと発展し、佐藤は支部長に就いた。
この時、支部婦人部長になったのは、妹の佐藤哲代であった。
佐藤は、温泉などを試掘するボーリングの仕事に従事していた。
戸田城聖は、宗門の総本山に、十分にして安全な飲料水がないことから、五五年(同三十年)の正月、地下水脈の試掘を彼に依頼した。
総本山の水脈調査は、明治時代から、しばしば行われてきたが、「水脈はない」というのが、地質学者たちの結論であった。
年々、多くの学会員が訪れ、宗門が栄えるにつれて、飲料水の確保は喫緊の課題となっていた。
佐藤は、目星を付けた場所を、約三カ月かかって、二百メートルほど掘ってみたが、地下水脈には至らなかった。
戸田は、「宗門を外護し、仏子である同志を守るために、必ず掘り当てなさい」と、厳しく指導した。
佐藤は、広宣流布を願うがゆえに、どこまでも宗門を大切にする、戸田の赤誠に胸が熱くなった。彼は懸命に祈った。