【第9回】 池田先生と長野 (2019.2.15)

 
軽井沢にある長野研修道場から浅間山を望む(昨年8月、池田先生撮影)。
長野は、池田先生が恩師・戸田先生と最後の夏を過ごし、広布のロマンを語り合った師弟共戦の誓いの天地である。
池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。
 
信濃の同志は絶対に信頼できる
 
師弟不二」の天地
池田先生の長野初訪問は1957年(昭和32年)8月。
その折、池田先生は、第2代会長の恩師・戸田先生と語らい、小説『人間革命』の執筆の思いを定めた。
奇しくもその日は、池田先生と戸田先生の初めての出会いから満10年の日だった。
私は、戸田先生に呼ばれ、この軽井沢の地を訪れた。
当時、私は29歳。この時が初めての長野訪問であった。
戸田先生の最後の夏をともに過ごした、ここ軽井沢は、忘れ得ぬ「師弟不二」の天地である。
当時、戸田先生のお体はそうとう衰弱されていた。

私は心に先生の死を予感し覚悟しつつ、小説『人間革命』の執筆を固く心に誓った。

世間は戸田先生に対して、さまざまに誤解し、批判・中傷したが、戸田先生の「真実」は、そばで仕えきった人間にしかわからない。
ゆえに私は、戸田先生の弟子として、先生の「真実」を断じて書き残したい、この偉大な師匠の「栄冠の人生」「勝利の人生」を満天下に示してみせる、と心に決めた。
 
反転攻勢の舞台
本年は、第1次宗門事件の折、第3代会長を辞任した池田先生が、長野研修道場に初めて訪れ、功労者をはじめ同志への訪問・激励を開始してから40年となる。

先生は、長野各地を駆け巡り、愛する長野の友に、渾身(こんしん)の励ましを送ってきた。  

1979年(昭和54年)、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の学会は、吹き荒れる猶多怨嫉(ゆたおんしゅつ)の嵐の中、「雌伏(しふく)」から「雄飛(ゆうひ)」への反転攻勢を、ここ信濃(しなの)から開始したのだ。

軽井沢(かるいざわ)をはじめ佐久(さく)、小諸(こもろ)、東御(とうみ)、上田、丸子(まるこ)と、変わらざる功労の友どちとの金の出会いも蘇(よみがえ)る。

また、松本、長野、須坂(すざか)、更埴(こうしょく)、川中島、諏訪(すわ)、茅野(ちの)、岡谷(おかや)、塩尻(しじり)、伊那(いな)、飯田、駒ケ根(こまがね)等々、各地で共戦譜を綴(つづ)ってきた。

雄大なアルプス、詩情あふれる千曲川(ちくまがわ)、ロマンの松本城、水冴(みすはえ)える上高地、緑光る志賀高原、豊かな実りの菅平(すがだいら)、若人と浩然(こうぜん)の気を養(やしな)った霧ケ峰――。
麗(うるわ)しき舞台で、同志とつくった「今生人界の思出」(御書467ページ)は不滅である。
さらに、憧れの木曽路(きそじ)、安曇野(あづみの)や大町をはじめ、いずこにも、心通い合う不二の同志が躍動している。
 
本物の一人に
長野の誇りは、師弟有縁の2つの研修道場である。
池田先生が「創価の師弟の生命錬磨の大城」と呼んだ長野研修道場、そして「天に一番近い研修道場」と語った長野青年研修道場である。

先生は、両研修道場で数々の指導を残し、人材を、そして青年を育成してきた。 

庶民。弱いように見えて、これほど強い存在はない。
“強者”が、いかに見くだし、いじめ、苦しめようと、庶民には、旺盛な“生きぬく力”がある。
現実の大地に深く根をおろした、たくましさがあり、知恵がある。一個の「人間」としての輝きがある。
その庶民のただ中に飛び込み、庶民とともに、みずからも一個の庶民として歩む――学会の強さは、ここにある。

そして、どこまでも民衆を、守りに守りぬいていく――それが学会の精神である。 

自分の「限界を超える」戦いを、一回でやめるか、二回、三回、そして生涯続けるか。
天才と平凡人といっても、その違いがあるだけなんだ。
結局、「自分に勝つ」以外に、道は開けない。
人がうらやましく見える時もあるかもしれない。
しかし、人は人、自分は自分だ。
他人と比べて一喜一憂するよりも、自分の状況のなかで、自分の今の「限界」を乗り越えることだ。
それを続けられる人こそが、人間としての真の「勝利者」であり「天才」なんだよ。
私は、青年部に、そうした「本物の一人」になってほしいのだ。精鋭だよ。

「本物の一人」を残せば、そこからいくらでも勝利は広がっていくのだから。 

すべては、一人の青年の戦いで決まる。
一人の庶民の勝利が一切を変えていく。
社会の中で、生活の中で、現実の中で、何があってもはつらつと、たくましく、トップランナーとして走りぬいていく。
そこにこそ、わが学会の、新しい勝利が生まれる。
栄光と希望が生まれる。
凱旋(がいせん)の万歳が響きわたる。
だれがやらなくとも、自分が勝てばよいのである。
自分が本物であればよいのである。

私も、その決心で走り続けている。 

一人が百万人の力を出すことがある。
反対に、一人のために百万人が犠牲になることもある。
「一人」が大切なのである。「一人」を、おろそかにしてはならない。

「一人」を励まし、伸ばす以外にない。 

学会員の皆さまは、尊貴なる「地涌の菩薩」である。
最も尊き「平和の闘士」である。「文化の戦人」である。「人道の勇者」である。
いつもいつも一生懸命に戦い続けておられる。
あまりにもけなげである。あまりにもいじらしい。
ゆえに私は、わが同志を最大に讃嘆(さんたん)したい。無量に称讃(しょうさん)したい。
永遠に顕彰申し上げたい。
 
模範の人材山脈
池田先生は昨年86日、長野研修道場で小説『新・人間革命』の最後の章を脱稿した。
同じ長野で、『新・人間革命』執筆を開始してから、ちょうど25年の節目だった。

この間、長野の友は、「創価信濃大学校」を軸に、小説を皆で読み合いながら、自他共の人間革命のスクラムを広げてきた。 

私にとって何よりうれしいことは、今、長野に、模範の人材山脈が聳(そび)え、幸と福徳の花が咲き薫(かお)り、そして後継の青年の大河が滔々(とうとう)と流れ通っていることである。
長野のこの街でも、あの村でも、わが友は地域の依怙依託(えこえたく)と輝き、いよいよ社会に貢献し、友好を深めて、「立正安国」の勝利の光を広げてくれている。

その英姿に私は妻と合掌(がっしょう)し、無事安穏であれ! 健康長寿であれ! と題目を送る日々である。

そして、長野から「世界広布」の永遠の光をと、私はいやまして一念を強めている。

御聖訓には、「名は必ず体にいたる徳あり」(御書1274ページ)と仰せである。

信濃」すなわち「信」の「濃き」人びと――その名の如く、信濃の同志は信義に篤い。絶対に信頼できる。  

今、世界の友が集い来る広宣流布大誓堂は、東京・新宿区の信濃町に立つ。不思議にも、世界広布の本陣も「信濃」である。
私は、広宣流布誓願を共に貫き通す学会精神の真髄(しんずい)は「信濃」にあり! 正しき信心は「信濃家族」に学べ! そう、声高らかに叫び切っていきたいのである。
私は、長野が大好きだ。

私は、長野を信ずる。

私の心は、長野の光の友と離れることはない。

さあ、これからも、私と一緒に! 同志と一緒に! 我らの広布の決勝点へ、どこまでも手を携えて、楽しく賢く朗らかに勝ち進んでいこうではないか! 未来永遠に!  

長野は池田先生が手作りで築き上げてきた広布の師弟城である。
県歌「信濃の歌」を高らかに歌いながら、新たな歴史を開く破竹の前進が、長野のあの地、この地で始まっている。​​