【第6回】 第2代会長 3 2009-1-13
【第6回】 第2代会長 3 2009-1-13
恩師と二人で創価大学の構想を練った
「必ずつくります 世界一の大学にします」
学生街の食堂で
昭和二十五年(一九五〇年)秋、池田大作青年に、師の個人教授は続いていた。ルソーの『エミール』などを題材にした。
社会的、経済的に失墜しても、決して師弟は挫折していない。どん底にありながら、いよいよ師は大きな構想を描いている。
神田は学生の街である。
戸田城聖の事務所から外に出れば、専修大学が見えた。日本大学までも歩いて数分である。駿河台のなだらかな坂をのぼっていくと明治大学があった。
日本橋川を渡れば、東京物理学講習所(東京理科大学の前身)の跡地である。
二人は昼食に大学の食堂をよく使った。安くて満腹になる。なによりキャンパス特有の自由で伸びやかな空気が好きだった。
十一月十六日、日本大学の学生食堂で、創価大学を設立する構想を練ったのも、こうした環境と無縁ではないだろう。
「大作、頼むよ」
「必ず、つくります。世界第一の大学にします」
師は発想力が豊かだが、なにも会議室のテーブルで議論するわけではない。こんな風に、安い飯をかき込みながら自然と話が弾む。
年の瀬、新橋駅近くの食堂でも同じことがあった。
「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
はたから見れば噴飯ものかもしれない。巨額な負債をかかえ、返済のめどすらも立っていない。経済事犯の首謀者として検挙される可能性もある。
何の資金もないのに、大学をつくる、新聞をつくる。正気の沙汰ではない。
ひょっとすると、こうした構想は、ほかの機会にも多々、語られていたのではないだろうか。時と場所を選ばない人物である。それだけに「また冗談を」と聞き流され、記録にも残らなかった。
しかし池田青年は本気で受け止めた。たとえ冗談のように聞こえる言葉でも、一つ残らず実行した。
昭和二十八年の春のことである。
ある男性が日光棄照宮の門前で働いていると、一人の青年が機敏に近づいてきた。
門前でスッと背筋を伸ばして、高々と名乗った。
「戸田城聖です!」
──この日、戸田会長は栃木方面を車で移動していた。徳川家康の霊廟である日光東照宮が近づくと、同乗していた愛弟子に言った。
「家康君に『戸田城聖が来たぞ!』と、あいさつしてきなさい」
命を受け、ただちに門前へ走ったのである。
「一方的な大演説などで、本当のことは語られていない。小さな、ちょっとした懇談、雑談。そこで漏らされた話の中にこそ、師匠の本当の意図が語られている」(池田SGI会長)
日比谷のお堀端を二人が歩いていた時のことである。ここは西神田から皇居をはさみ反対側に位置する。
食事に行くというより、何か用事があったのだろう。顧客回りなのか、検察や官庁に届け出があったのか、定かではない。
春の日だった。皇居の樹木をざっと鳴らして、雨粒が降ってきた。池田青年がタクシーをさがすが、すぐには拾えない。
堀に面したビルから、背の高い白人が表通りに出てきた。第一生命のビル。連合国軍の総司令部が置かれていた。GHQ(連合国軍総司令部)の高官が高級車に乗り込むところだった。
恩師と大楠公
師は雨に打たれたまま、目をすぼめ、じつと光景を見ている。
池田青年は悔しくてならない。最高の統治機関であるGHQには、輝くような権威の後光が射している。かたや戸田の財布はからっぼで、経済社会の底辺にいる。残酷なコントラストだった。
タクシーに師を乗せながら、いつの日か車を幾十台もそろえ、立派な建物をいくつも建てると約束した。
このできごとがいつだったか、年月日は特定できない。しかし、たとえ満身創痍になろうとも、心は折れていなかったことを物語るエピソードである。
後に、牧口・戸田両会長の名を冠した大規模な会館が生まれるが、その淵源も、この苦闘期にあったと思われる。
昭和二十六年(一九五一年)の年が明けた。
池田青年にとって、これほど暗い正月もなかった。年頭から気管支炎をわずらい、信用組合の整理もっいに来るべきところまで来てしまった。
債権者に戸田は告訴され、大蔵省の心証はきわめて悪い。頼みの顧問弁護士まで、さじを投げてしまった。
一月六日の土曜日、師の自宅に呼ばれた。大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、戸田と妻のほかは、だれもいない。
恩師は非常手段として検察に出頭するつもりであると告げた。状況によっては身柄がどうなるかわからない。覚悟を口にしたとき、かたわらで妻の幾が泣きくずれた。
心労から戸田の頬はこけていた。万一の場合、学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
弟子は、すでに一生を師匠に捧げる覚悟ができていることを述べ、大橋公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合わせた。
今日なお、池田会長はピアノに向かうさい、好んで"大楠公"を弾く。ただの楽曲ではなく、それは師との、生死をかけた日々の記憶と、分かちがたく結びついているからであろう。かつて"大楠公"を奏でたとき、手拍子でメロディーに和そうとした者を厳しく制したことすらある。
「必要ない。私は戸田先生を偲んで弾いている」。およそ余人の入り込む余地のない縁なのである。
しばらくあとの日記に、こう記した。
「師弟ノ道ヲ、学会永遠ニ、留メオクコト」
一月中旬のある日。
ひもで十字に結わえた十冊ほどの本を手に、池田青年が出かけると、蒲田駅の西口で一人の男子部員と、ばったり会った。
恩師のため、愛読書を古書店に売るところだった。立ち話の切れ目に、小さな紙片を出し、さらさらと書いて渡した。
心情を投影した一文が記してあった。
「謗(そし)る者は汝の謗るに任せ
囁(わら)う者は汝の囁うに任す天公 本我を知る 他人の知るを覓(もと)めず」
幕末の思想家・佐久間象山の言葉である。この日は愛読書『プルターク英雄伝』のセットなどを手放し、戸田の生活を支えた。
謗るなら謗れ。笑うなら笑え。その覚悟は深く、ゆるぎなかった。
二月の中旬には、この年三度目の雪が降る。翌日までに何とかしなければ、担保になっていた恩師の自宅が取られてしまうという日もあった。
事態は急転する。
大蔵省から、組合員の総意がまとまるならば組金を解散してもよいという内意を伝えてきた。
これ以降、交渉は順調に進み、三月初旬には組合員全員の決議により解散することが決まった。
いかなる事情で、大蔵省の心証が好転したか、確たる資料はない。
ただ、びくとも動かない岩盤に、渾身でドリルを打ち続けたのは、池田青年だった。
真っ暗闇のトンネルで、この若者がいるうちは倒れてなるものか、と戸田に力を与えたのも彼だった。
恩師が経営する金融事業は、資金を調達する営業と、債権を回収する整理の部門に分かれていた。
池田青年は営業の責任者となった。
三月十一日をもって東京建設信用組合は解散し、専務理事・戸田城聖に対する法的義務も、いっさい消滅した。
ついに虎口を脱したのである。いよいよ新会長の誕生が焦点になる。
しかし楽観は禁物だった。
たとえ会長になっても、信用組合の精算によって生じた莫大な負債は、戸田に重くのしかかる。
創価学会の財政基盤を戸田城聖個人で背負う体制にも変わりはない。
そうした財源を確保できるかどうか。
すべては事業の状況、つまり池田青年の働きひとつにかかっていたといってよい。
(続く)
恩師と二人で創価大学の構想を練った
「必ずつくります 世界一の大学にします」
学生街の食堂で
昭和二十五年(一九五〇年)秋、池田大作青年に、師の個人教授は続いていた。ルソーの『エミール』などを題材にした。
社会的、経済的に失墜しても、決して師弟は挫折していない。どん底にありながら、いよいよ師は大きな構想を描いている。
神田は学生の街である。
戸田城聖の事務所から外に出れば、専修大学が見えた。日本大学までも歩いて数分である。駿河台のなだらかな坂をのぼっていくと明治大学があった。
日本橋川を渡れば、東京物理学講習所(東京理科大学の前身)の跡地である。
二人は昼食に大学の食堂をよく使った。安くて満腹になる。なによりキャンパス特有の自由で伸びやかな空気が好きだった。
十一月十六日、日本大学の学生食堂で、創価大学を設立する構想を練ったのも、こうした環境と無縁ではないだろう。
「大作、頼むよ」
「必ず、つくります。世界第一の大学にします」
師は発想力が豊かだが、なにも会議室のテーブルで議論するわけではない。こんな風に、安い飯をかき込みながら自然と話が弾む。
年の瀬、新橋駅近くの食堂でも同じことがあった。
「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
はたから見れば噴飯ものかもしれない。巨額な負債をかかえ、返済のめどすらも立っていない。経済事犯の首謀者として検挙される可能性もある。
何の資金もないのに、大学をつくる、新聞をつくる。正気の沙汰ではない。
ひょっとすると、こうした構想は、ほかの機会にも多々、語られていたのではないだろうか。時と場所を選ばない人物である。それだけに「また冗談を」と聞き流され、記録にも残らなかった。
しかし池田青年は本気で受け止めた。たとえ冗談のように聞こえる言葉でも、一つ残らず実行した。
昭和二十八年の春のことである。
ある男性が日光棄照宮の門前で働いていると、一人の青年が機敏に近づいてきた。
門前でスッと背筋を伸ばして、高々と名乗った。
「戸田城聖です!」
──この日、戸田会長は栃木方面を車で移動していた。徳川家康の霊廟である日光東照宮が近づくと、同乗していた愛弟子に言った。
「家康君に『戸田城聖が来たぞ!』と、あいさつしてきなさい」
命を受け、ただちに門前へ走ったのである。
「一方的な大演説などで、本当のことは語られていない。小さな、ちょっとした懇談、雑談。そこで漏らされた話の中にこそ、師匠の本当の意図が語られている」(池田SGI会長)
日比谷のお堀端を二人が歩いていた時のことである。ここは西神田から皇居をはさみ反対側に位置する。
食事に行くというより、何か用事があったのだろう。顧客回りなのか、検察や官庁に届け出があったのか、定かではない。
春の日だった。皇居の樹木をざっと鳴らして、雨粒が降ってきた。池田青年がタクシーをさがすが、すぐには拾えない。
堀に面したビルから、背の高い白人が表通りに出てきた。第一生命のビル。連合国軍の総司令部が置かれていた。GHQ(連合国軍総司令部)の高官が高級車に乗り込むところだった。
恩師と大楠公
師は雨に打たれたまま、目をすぼめ、じつと光景を見ている。
池田青年は悔しくてならない。最高の統治機関であるGHQには、輝くような権威の後光が射している。かたや戸田の財布はからっぼで、経済社会の底辺にいる。残酷なコントラストだった。
タクシーに師を乗せながら、いつの日か車を幾十台もそろえ、立派な建物をいくつも建てると約束した。
このできごとがいつだったか、年月日は特定できない。しかし、たとえ満身創痍になろうとも、心は折れていなかったことを物語るエピソードである。
後に、牧口・戸田両会長の名を冠した大規模な会館が生まれるが、その淵源も、この苦闘期にあったと思われる。
昭和二十六年(一九五一年)の年が明けた。
池田青年にとって、これほど暗い正月もなかった。年頭から気管支炎をわずらい、信用組合の整理もっいに来るべきところまで来てしまった。
債権者に戸田は告訴され、大蔵省の心証はきわめて悪い。頼みの顧問弁護士まで、さじを投げてしまった。
一月六日の土曜日、師の自宅に呼ばれた。大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、戸田と妻のほかは、だれもいない。
恩師は非常手段として検察に出頭するつもりであると告げた。状況によっては身柄がどうなるかわからない。覚悟を口にしたとき、かたわらで妻の幾が泣きくずれた。
心労から戸田の頬はこけていた。万一の場合、学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
弟子は、すでに一生を師匠に捧げる覚悟ができていることを述べ、大橋公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合わせた。
今日なお、池田会長はピアノに向かうさい、好んで"大楠公"を弾く。ただの楽曲ではなく、それは師との、生死をかけた日々の記憶と、分かちがたく結びついているからであろう。かつて"大楠公"を奏でたとき、手拍子でメロディーに和そうとした者を厳しく制したことすらある。
「必要ない。私は戸田先生を偲んで弾いている」。およそ余人の入り込む余地のない縁なのである。
しばらくあとの日記に、こう記した。
「師弟ノ道ヲ、学会永遠ニ、留メオクコト」
一月中旬のある日。
ひもで十字に結わえた十冊ほどの本を手に、池田青年が出かけると、蒲田駅の西口で一人の男子部員と、ばったり会った。
恩師のため、愛読書を古書店に売るところだった。立ち話の切れ目に、小さな紙片を出し、さらさらと書いて渡した。
心情を投影した一文が記してあった。
「謗(そし)る者は汝の謗るに任せ
囁(わら)う者は汝の囁うに任す天公 本我を知る 他人の知るを覓(もと)めず」
幕末の思想家・佐久間象山の言葉である。この日は愛読書『プルターク英雄伝』のセットなどを手放し、戸田の生活を支えた。
謗るなら謗れ。笑うなら笑え。その覚悟は深く、ゆるぎなかった。
二月の中旬には、この年三度目の雪が降る。翌日までに何とかしなければ、担保になっていた恩師の自宅が取られてしまうという日もあった。
事態は急転する。
大蔵省から、組合員の総意がまとまるならば組金を解散してもよいという内意を伝えてきた。
これ以降、交渉は順調に進み、三月初旬には組合員全員の決議により解散することが決まった。
いかなる事情で、大蔵省の心証が好転したか、確たる資料はない。
ただ、びくとも動かない岩盤に、渾身でドリルを打ち続けたのは、池田青年だった。
真っ暗闇のトンネルで、この若者がいるうちは倒れてなるものか、と戸田に力を与えたのも彼だった。
恩師が経営する金融事業は、資金を調達する営業と、債権を回収する整理の部門に分かれていた。
池田青年は営業の責任者となった。
三月十一日をもって東京建設信用組合は解散し、専務理事・戸田城聖に対する法的義務も、いっさい消滅した。
ついに虎口を脱したのである。いよいよ新会長の誕生が焦点になる。
しかし楽観は禁物だった。
たとえ会長になっても、信用組合の精算によって生じた莫大な負債は、戸田に重くのしかかる。
創価学会の財政基盤を戸田城聖個人で背負う体制にも変わりはない。
そうした財源を確保できるかどうか。
すべては事業の状況、つまり池田青年の働きひとつにかかっていたといってよい。
(続く)