2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧

小説「新・人間革命」 厳護 18 12月28日

創価学会の会館建設の流れは軌道に乗り、一九七〇年代後半には、各県区にも、鉄筋コンクリート造りの大型会館が、次々と建設されていった。 また、七四年(昭和四十九年)からは、全国各地の研修所や文化会館なども使って、夏季講習会が行われるようになって…

小説「新・人間革命」 厳護 17 12月27日

一九六九年(昭和四十四年)秋には、山本伸一の提案で、男子部の幹部養成機関として、第一期三千余人からなる「輸送班大学校」が開校した。 伸一は、男子部の中核となっていくうえで、「輸送班」などでの教育は、不可欠であると感じていた。それは、彼自身が…

小説「新・人間革命」 厳護 16 12月25日

一九五五年(昭和三十年)の十月、山本伸一は、青年部の室長として、「男子部輸送班に与う」と題する指針を発表した。 そこでは、会員一人ひとりに心を砕き、正確に、敏速に、また、情熱と誠実をもって事に当たっている「輸送班」の姿を賞讃し、こう訴えてい…

小説「新・人間革命」 厳護 15 12月24日

創価班委員長の加藤正秋は、山本伸一の『若き日の日記』や小説『人間革命』を読み、一月六日は、伸一が戸田の後継者であることを深く自覚した、歴史的な日であることを知ると、体中に電撃が走る思いがした。 “先生は、その意義深き日に、第一回創価班総会を…

小説「新・人間革命」 厳護 14 12月23日

一九五一年(昭和二十六年)の一月六日、土曜日であった。 山本伸一は、業務停止となった東光建設信用組合の残務整理のために、戸田城聖の自宅に呼ばれた。 四面楚歌の状況であり、一部の債権者は、戸田を告訴さえしていた。事と次第によっては、戸田は、逮…

小説「新・人間革命」 厳護 13 12月22日

青年の育成に全力を注ぎ、常に青年が一切の活動をリードしてきたのが、創価学会の伝統である。つまり、「青年学会」たり得てこそ、未来永遠の発展もあるのだ。 山本伸一は、二十一世紀まで四半世紀を切った今こそ、いよいよ青年の育成に、本格的に力を注がね…

小説「新・人間革命」 厳護 12 12月21日

宮坂勝海の父母は、「牙城会」のメンバーとして、健気に広宣流布の使命に生きたわが子を、最高の誇りとしていた。 二人は、“勝海は、若くして逝ってしまったが、今世で、宿命を転換しての死であったのだ”と、深く感じることができた。 牙城会員の「厳護」の…

小説「新・人間革命」 厳護 11 12月20日

夏季講習会二日目には、九州牙城会総会が行われ、あいさつに立った男子部長の野村勇は、「宮坂君の姿に、牙城会員の鑑を見る思いがする」と述べ、こう提案した。 「広宣流布の先駆である九州牙城会は、初の試みとして、方面牙城会旗を作製してはどうかと考え…

小説「新・人間革命」 厳護 10 12月18日

宮坂勝海の他界から二カ月余りが過ぎた、一九七六年(昭和五十一年)七月三十一日から八月二日まで、九州牙城会の夏季講習会が、鹿児島県の九州総合研修所(現在の二十一世紀自然研修道場)で行われた。 講習会一日目の野外集会で、宮坂をモデルにした演劇が…

小説「新・人間革命」 厳護 9 12月17日

余命一カ月――しかし、宮坂勝海は、二カ月、三カ月と生きた。そして、遂に、山本伸一の会長就任十六周年となる、一九七六年(昭和五十一年)の五月三日を迎えた。 「ぼくは生きたよ。五月三日を迎えたよ」 その日から彼は、一日一日、目に見えて、衰弱の度を…

小説「新・人間革命」 厳護 8 12月16日

宮坂勝海は、体の不調を覚え、一九七六年(昭和五十一年)一月、病院で検査を受けると、直腸癌とわかった。既に末期であった。 手術をしたが、癌は、あちこちに転移しており、取り除くことはできなかった。「余命一カ月」と言われた。 しかし、彼は、家族に…