小説「新・人間革命」 厳護 30 1月14日

山本伸一は、「創価班」のスタートにあたって、信仰の原点を明確に再確認しようと考えていた。それによって、めざすべき道も、おのずと明らかになっていくからだ。
 「御本仏・日蓮大聖人の御遺命は、広宣流布です。それを忘れたならば、もはや、日蓮仏法の意義はなくなってしまう。
 したがって諸君は、この広宣流布の本義に徹し、仏法の真髄を、民衆のなかへ、地域のなかへ、社会のなかへと伝えゆく存在であってほしい。
 『創価班』は、広宣流布を推進しゆく原動力であり、本体である創価学会の、末法万年にわたる盤石な構築をすることに、一切の使命があると銘記していただきたい」
 日蓮大聖人は、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書九〇三ページ)と仰せである。
 広宣流布こそ、大聖人の大願であり、その実践に、門下の根本要件がある。したがって、日蓮仏法の仏道修行とは、自行化他であり、布教が不可欠な課題となるのである。
 日興上人の御遺誡にも、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(同一六一八ページ)とある通りだ。
 広宣流布に生き抜く人こそが、本当の大聖人の弟子であり、信心の継承者となるのだ。
 いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した死せる宗教に等しい。
 広宣流布の使命を自覚し、人びとに救済の手を差し伸べる、弘教という行動のなかに、大聖人の大精神が、地涌の菩薩の大生命が脈動するのである。
 ここで伸一は、仏法では、「時」を重要視していることを述べた。
そして、「創価班」のメンバーには、時代をしっかりと見すえ、時機相応の指揮を執っていくように、期待を寄せたのである。また、そこに、「創価班」として新出発した意義もあることを語った。