2010-08-01から1ヶ月間の記事一覧
【第1回】 御書と青年 師弟請願の祈り 2010-1-25 世界一の大哲学を胸に進め! 御書は希望 勇気 智慧の泉 池田名誉会長 時代は、大きく動いている。激動の時こそ、青年の出番だ。 青年には勇気がある。青年には活力がある。青年にはビジョンがある。 いよいよ…
平和ほど幸福なものはない 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」 池田名誉会長が、この書き出しから、小説『新・人間革命』を開始したのは、平成5年(1993年)の8月6日であった。 「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねるこ…
皆、誓いを果たし幸福に 友は忘れない。あの時の励ましを。慈愛に満ちた眼差しを。共に歌った歌声を。 昭和44年(1969年)8月21日。女子部の夏季講習会で行われた全国野外集会。 池田名誉会長と7500人の参加者の大合唱が、夜空に何度も何度も響…
関西はわが胸中の炎 戸田第2代会長の名を冠する講堂は三つある。牧口初代会長と2代会長が獄中闘争を貫いた東京・巣鴨、2代会長の故郷・北海道の厚田。そして、大阪の豊中である。 昭和51年(1976年)の祥月命日の4月2日、他に先駆けて、豊中に「…
強盛な祈りが諸天を動かす ドアを開けると、一番奥の席に、池田名誉会長夫妻の姿があった。 同志が営む駅前の喫茶店。名誉会長夫妻の来訪を知った婦人部の友が、次々とやってきた。夫妻は「よく来たね!」「ご苦労さま!」と、温かく包み込むように迎えた。 …
常勝関西の支柱たれ 春の陽光に包まれた若草山の山頂。池田名誉会長は万葉の都・奈良を一望していた。昭和47年(1972年)4月のことである。 あの「大阪の戦い」の渦中にも、青年部員と共に足を運んだ。 青春の勝利、師弟の勝利を、固く心に誓った思い…
「人生も社会も 勝ってこそ幸福」 夏が来る。 空も大地も、我らの命も、喜び燃え立つ夏が来る。 北海道の夏。それは「弟子が、勝って師匠に応えた」栄光の舞台であった。 平成4年(1992年)夏。空前の拡大と勝利に、全道の喜びが爆発した。 「難攻不落…
どんな時も「一人立つ精神」 会合の“さざめき”が、会館内に響いていた。 じっと聴いていた池田名誉会長は、会合の進行を妨げないように、会場前方の扉から、そっと入場した。 「先生!」。気づいた友が歓呼の声をあげる。すると、名誉会長は「私は話してはい…
友よいざ征け 黎明だ 見上げると、美しい虹がかかっていた。 南の空に光る機影。午後4時35分、ジェット機が滑走路に滑り込む。 タラップに姿を現したのは池田名誉会長。送迎デッキから、爆発的な歓声が起こった。 昭和55年(1980年)4月29日、長…
「最も苦労している人に光を!」 鳥取の米子文化会館が揺れるような歓声にわき返った。爆笑の声、声、声。 会場の外で任務に就いていた役員は、耳を疑った。「こんなにぎやかな集いが、今まであっただろうか」 平成3年(1991年)9月8日。池田名誉会長…
信心も人生も強気でいけ! 会場に入ると、左右に置かれた巨大な“壁画”が目に飛び込んできた。 左手には富山の五箇山の山村。右手には石川の兼六園が描かれている。それぞれ、高さ7メートル、横幅20メートルの堂々たる作品だ。 「すごいね。見事だ」と池田…
埼玉県文化祭翌日の八月三十日、山本伸一は、埼玉文化会館(現在の大宮文化会館)で、文化祭の運営関係者らと共に、新装記念勤行会を行った。 同会館は、一九六九年(昭和四十四年)に埼玉本部として開館し、この七六年(同五十一年)に新装され、埼玉文化会…
九州総合研修所での行事を終え、東京に戻った山本伸一は、八月二十八日には、神奈川の県民ホールで、「二十一世紀への船出」をテーマに行われた、’76神奈川県文化祭に出席した。 どの演目も、すばらしかった。なかでも、日蓮大聖人と生死を共にせんとした…
山本伸一のテーブルにいるメンバーは、緊張した顔で、彼の話を聞いていた。 「自分に光が当たらなくなると、離反はせずとも、ふてくされたり、勝手な行動をとる者、傍観者を決め込む者も出るでしょう。 私は、戸田先生の時代から、傲慢な幹部たちが堕ちてい…
九州総合研修所での、山本伸一の敢闘は続いた。八月二十五日には、男子部、学生部の中核メンバーで結成された、人材育成グループ「伸一会」の集いに出席した。 食事をしながらの懇談であった。 伸一は、同じ円形テーブルに着いた十人ほどのメンバーの、近況…
山本伸一は、皆が信心の大功徳を受けてほしかった。ゆえに、その源泉となる、唱題の大切さを力説していったのだ。 「唱題根本に、広宣流布に生き抜いていくならば、来世も、願ってもない最高の境涯で、御本尊のもとに生まれ合わせることができる。つまり、後…
山本伸一の導師で、勤行が始まった。 白馬が天空を駆け上がるような、生命の躍動感にあふれた勤行であった。 伸一は、ここに集った同志が、健康で、長寿で、幸福を満喫し、また、一家が繁栄するよう真剣に祈念した。 勤行が終わると、皆、生命が洗い清められ…
会場には、山本伸一のために、机とイスが置かれ、マイクも用意されていた。 伸一は、会場提供者の時田勇雄と握手を交わし、丁重に御礼を述べた。 「いつも会場として使わせていただき、大変にありがとうございます。それによって、地域広布が、どれだけ前進…
山本伸一は、大学受験をめざし、浪人中であるという本吉勝三郎の三男にも、励ましの言葉をかけた。 伸一は、大福運に包まれた、和楽の家庭を築いていくよう念じながら、彼が揮毫した、「共戦」と「安穏」の色紙を、本吉夫妻に贈り、皆で一緒に記念撮影した。…
さあ、戦おう!” 山本伸一は、そう心で自分に呼びかけながら、本吉勝三郎の家の前で車を降りた。 本吉の家は、繁華街の一角にある平屋建てであった。 午後六時前、到着した伸一を、本吉をはじめ、家族五人で出迎えてくれた。 皆で題目を三唱したあと、座卓を…
二十四日の午後五時過ぎ、山本伸一は、車で九州総合研修所を出発し、国分市街(当時)をめざした。研修所に近い清水総ブロック、国分総ブロック合同の代表者勤行会に出席するためである。 切り立った岩が迫る道を抜け、緑の林のなかを、車は進んでいった。 …
山本伸一は、目を輝かせて、再現された「青葉荘」の部屋に置かれた、一つ一つの調度品を見た。そして、本棚に視線を注ぐと、声をあげた。 「確かに、これは、みんな読んだ本だよ。よく集めてきたな……」 それから、青春時代を思い起こしながら、峯子に語って…
八月二十四日は、初の「壮年部の日」を記念して、東京・八王子市の創価大学や、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂などで、祝賀の集いが行われたほか、全国各地で、総ブロックごとに記念の部員会が開催されていた。 山本伸一は、この日、九州総合研修所で、諸行…
一九五〇年(昭和二十五年)夏、戸田城聖の経営する信用組合は、完全に行き詰まり、業務停止のやむなきに至った。 戸田は、戦後、会長不在のなか、理事長として、学会再建の責任を担ってきた。だが、これ以上、その理事長を続けるならば、事業破綻の波紋は、…
日本の宗教社会学の第一人者として知られた安齋伸博士は、一九六三年(昭和三十八年)から、奄美諸島や沖縄の島々を歩き、宗教・社会調査を行っている。 そこで、喜々として活躍する創価学会員の姿に触れ、広宣流布の広がりに、目を見張ったという。 そして…
富島トシは、山本伸一の言葉に、目を潤ませながら、何度も、何度も、頷いた。 伸一は言った。 「さあ、また、新しい出発をしましょう。いつまでも、お元気でいてくださいよ」 富島は、笑顔で答えた。 「はい。私は六十五歳になりますが、これからが本当の戦…
山本先生とお会いして、喜界島のことをご報告したい……” 富島トシは、朝な夕な、そう御本尊に祈り続けてきた。 そして、この一九七六年(昭和五十一年)八月二十三日、九州総合研修所で、山本伸一と会うことができたのである。 「ようこそ! ようこそ、いらっ…